大村雅朗が40年前に志向していたクールなサウンド、プロデューサー木﨑賢治と語る



田家:1983年5月発売、沢田研二さんの「晴れのちBLUE BOY」。

木﨑:銀色さんの詞が大澤でやってよかったんで、沢田研二に作ってもらわないとって。同じ詞に何人かのメロディーをつけた。それで良かったのが大澤の曲だったので、大澤と銀色さんになって、それを大村さんにアレンジしてもらった。

田家:このジャングルビートは大村さんから出てきたんですか?

木﨑:誰から出てきたかわかんないんですけど、大澤から出てきたんですかね。

田家:ぽいとこありますもんね。

木﨑:ええ。それをこういう形にしてもらって。今聞くともうちょいベースとキックが長い方がいいなと思ったり(笑)。

田家:さすがに細かいですね(笑)。

木﨑:歌が自分はあまり納得できなかったんですよ、録った時。大澤の16のノリみたいなのが、沢田研二だとちょっと8っぽい感じになってしまっていた感じがあったんです。だけど今聞いたら思っていたより全然よかったですね、歌が。

田家:ハードルの高いプロデューサーだったってことで知られております(笑)。

木﨑:僕が大村さんとやった仕事は大体グルーヴのある曲。自分、グルーヴのあるものが好きだったので、この曲もすごく繰り返しが多いんです。それにメロディを乗っけて。多分他のアーティストではあまりそういうアレンジってやってないんじゃないかなって。大澤はR&Bが好きで始まっているから。

Rolling Stone Japan 編集部

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