大村雅朗没後25年、生前最後のスタジオをともにした石川鉄男と音像を辿る



石川:この曲は本当に不思議なんですよね。そんなに意識はしてなかったんですけど、ライブでお客さんがみんな「頭から「Rain」が離れないんだけど」って。中毒性がある。決して派手でもないし、目新しいところもないんだけど、当時で言うとこれはソニーがすごくバイタリティがあったレーベルだったのでAメロ用に作った作曲デモテープと全然違う試しに作ったサビのデモテープがあるんですよ。このAとBとこの曲のC、サビをくっつければよくなるんじゃないかみたいな話になってやることが多かったんです。この曲はすぐ転調するんです。無理やりキーを合わせないで、デモテープの時のキーに合わせていくという。渡辺美里さんの「My Revolution」とか大村さんの転調というか、ああいうようなものが当たり前になってポップスになった。いきなりサビで転調したり、渡辺美里さんで言うとSus4というコードを使いながら転調していく方法があるんですけども、そういうのってあまりポップじゃなかった、やっちゃいけないみたいなところもあったんです。

田家:それは小室哲哉さんと言われることが多いですけど、大村雅朗さんも。

石川:ほぼ同時なんですかね。小室哲哉さんと大村さんの渡辺美里さんから始まった、TKファミリーの1stが渡辺美里さんのようなものを感じるので。所謂ポップスで使っていいんだみたいになった大人版がこの「Rain」じゃないかなと。でも気がつかないんですよね。

田家:気がつかないんだけども、耳に残っている。

石川:聴いていてすごく気持ちいいですね。

田家:大江千里さんは1986年のアルバム『AVEC』、1987年『OLYMPIC』、1988年『1234』、全曲大村さんアレンジですもんね。

石川:そうですね。絶大に信頼していましたね。

田家:冒頭で晩年のラストシーン、そこに石川さんがいらっしゃったお話を伺いましたが、大江千里さんもそこにいらしたんでしょう?

石川:そうですね。毎日誰かしらがお見舞いに行っていたところで進行中のプロジェクトもあったんです。僕はその時きっとよくなると思っていたので進行中のものをちょっとずつ裏で進めながら頻繁にお見舞いに行っていたんです。話がある時に、たまたま千里さんが来て、その日だったか次の日だったかが最後だった感じですかね。今まで気弱なことを言わないタイプだったんですよ。大丈夫、大丈夫、オッケーみたいな人なんだけど、最後の最後に「もう私ダメかもしれませんね」みたいな今まで言わないような口調で。

田家:丁寧な口調で。

石川:それが僕にとっては最後の言葉です。その後はご家族の方がいて、そこでの会話は分からないんですけど僕にとっては「私最後かもしれません」みたいな言葉が最後でしたね。

田家:それ聞いた時はどういうふうに思われました?

石川:その時はまだ亡くなることを受け入れる気持ちがなかったので、「いやいやそんなこと言わないでくださいよ」しかなかったですね。

田家:大村さんと出会わなかったら石川さんもこういう形でお仕事されてないでしょ?

石川:そうですね。やさしさというか、自分が好きなことを素直に人に伝えてくる人だったので。僕はシンセサイザーという大村さんが好きな新しいものをどんどんインプットしてくれるんです。1回繋がるといろいろなところに繋げていってくれる人だったので、大村さんがいていろいろな人に出会えて、いろいろなところに紹介してもらったり。

田家:最後の曲です。松田聖子さん1983年の曲「SWEET MEMORIES」。

Rolling Stone Japan 編集部

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