アルファレコードが求めた精神の自由 村井邦彦と共に振り返る

(インタビュー)

田家:日本で新しいスタジオを作る難しさはありましたか?

村井:難しさはなかったですけど、揉めましたね。設計施工したのは鹿島建設ですけど、鹿島建設のスタッフがビクターの原宿スタジオとか作っていて。それとはコンセプトが違うからね。僕らがやる音楽は、例えばユーミンとかティン・パン・アレイみたいなものですけど、ビクターは邦楽がありますからね。原宿の前に築地にビクターのスタジオがあって、ある日そこに行ったら畳をひいた台があって。これなんですか? って訊いたら、三味線の録音をしていたと。ビクターは総合レコード会社ですから、歌謡曲、クラシック、邦楽など何にでも使えるスタジオを目指しているわけですよ。でも僕らは的を絞って、ユーミンとかティン・パン・アレイみたいな音楽を録るためのスタジオですから、そこに大きな違いがありました。

田家:アルファの女性アーティストというとユーミンがいますが、吉田美奈子さんも柱の一つだったと思います。吉田美奈子さんのアルファレコードで出す前のアルバム『MINAKO』も村井さんのプロデュースですもんね。

村井:『MINAKO』はユーミンの初期のレコードのバックだった大貫妙子とか山下達郎、吉田美奈子がバックコーラスで参加したアルバムだから。贅沢だよね。その時代から吉田美奈子を優れたシンガーだと認識していて、原盤を作ったらRCAの永野さんという重役が「村井さんお願いだからこれをRCAで出させてくれ」と言うので、RCAでリリースしましたね。その中に大滝詠一の「夢で逢えたら」も入ってましたね。

田家:1977年11月にアルファレコードを設立されて、細野さんとプロデューサー契約するようになってそこから関係が変わりましたね。

村井:細野は当時まだクラウンレコードとアーティスト契約があったのかな。僕はどうしてもアルファ陣営に細野がほしいので「プロデューサーとして来てくれ、行く末にはアーティストとしてもアルファでやってほしい。その代わり好きなことを思う存分やってくれ」ということで来てもらったんです。

田家:小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』の村井さんと細野さんの対談の中で、細野さんを村井さんが紹介されたのが川添浩史さんの家のダイニングキッチンだったと。

村井:そうなんですよね。それで細野に訊いたら、川添浩史さんとは会ってないらしいんですよ。そうだったのかと思って。川添浩史さんの家で会ったわけだから、浩史さんと細野も会っていたと僕は思っていたんだけど。ただ、川添浩史さんに大きな影響を与えた哲学者・仲小路彰さんと細野は何回か会って、細野も大きな影響を受けたらしいというのはその対談の時に分かりました。


Rolling Stone Japan 編集部

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