海野雅威がジャズピアノの歴史と向き合う理由「スタンダードを知らずに自分の曲は書けない」

海野雅威(Photo by John Abbott)

 
ジャズピアニストの海野雅威が最新アルバム『I Am, Because You Are』を発表した。そこには様々なスタイルを身に着け、その歴史をリスペクトする海野の姿勢が垣間見える。ニューオーリンズからスウィング、ストライドピアノからビバップ、モーダルまで。100年を超えるジャズ史が海野らしい演奏のなかに散りばめられている。

1980年生まれの海野は、トランペッターの黒田卓也と同い年で、ロバート・グラスパーやカマシ・ワシントンとほぼ同世代。ハイブリッドなジャズを提示してきた彼らと同じ時代に育ってきたわけだが、オーセンティックなジャズに恋焦がれてきた海野の演奏や音楽観には、大ベテランのような成熟が感じられる。だからこそ、アメリカに渡ってからレジェンドたちの信頼を勝ち取り、ロイ・ハーグローヴのレギュラーバンドにも抜擢されたのだろう。

僕(柳樂光隆)も同世代の一人として、海野とじっくりジャズピアノの話ができたらと思っていた。このインタビューでは彼が出会い、聞き親しんできたピアニストについてたっぷり語ってもらったので、ジャズ史を縦断するようにピアニストの名前が多数登場する(膨大な情報量になったので、参考資料としてプレイリストを作成してみた)。サマラ・ジョイのように、オーセンティックなジャズが再び注目を浴びている今の状況を考えるうえでも、意義深い話ができたと思う。

(※編注)記事中の写真はすべて海野氏提供、コメントも本人によるもの。



 
―今日は海野さんのジャズピアノ観を深堀りできたらと思います。まず、一番好きなのは誰ですか?

海野:一番は決められない……でも、ちゃんとお会いできて、何かを心に残してくれた存在でもあるハンク・ジョーンズってことになるのかな。

僕はオスカー・ピーターソンから入って、ビル・エヴァンスを聴いて、ウィントン・ケリー、レッド・ガーランド、ソニー・クラーク、ボビー・ティモンズ、ホレス・シルヴァー、エロル・ガーナーとモダンジャズは一通り聴いてきました。でも、実際お会いできた人ってなるとハンク・ジョーンズだし、ハンクは僕が思う最高のピアニストなんですよ。

―どんなところが最高なんですか?

海野:技術的なことを言えば、ハンクがニューヨークに出てきた時代はまだハーレムにストライド・ピアニストがたくさんいたので、彼はそれを経験して身につけているんですよね。でも、その後すぐにストライド・ピアノは歴史からガクっと抜け落ちてしまった。ルートや10度も多用して、強力な左手の支えの上で成り立つ……という演奏が、モダンジャズのなかで影を潜めてしまったと思うんです。

―ビバップ以降、存在感が薄くなったスタイルですよね。

海野:ジェームス・P・ジョンソン、ウィリー“ザ・ライオン”スミス、ファッツ・ウォーラーらがやっていたスタイルを、ハンクが踏襲して発展させていることは彼の大きな持ち味にもなっています。例えばバリー・ハリスはこのストライド時代のNYを経験できなかったことを悔やんでいたようです。それに、ハンクは、テディ・ウィルソンの後釜としてベニー・グッドマン楽団にも在籍したので、スイングの時代も心得ている。しかも、チャーリー・パーカーやメアリー・ルー・ウィリアムス、セロニアス・モンクとも友人でビバップ創成期からその中心にいたピアニストですし、彼らと共に演奏している。ある時、ハンクが「チャーリーは若かったけど凄い才能だったよ」と親しみを込めて話してくれたことがあって「チャーリー誰のことですか?」って僕が聞いたら、なんとパーカーでした(笑)。それでハンクよりパーカーが年下だってその時に改めて気づきました。さらにバド・パウエルとも交流があり、バドもハンクを尊敬していましたし、オスカー・ピーターソンやジョージ・シアリングもハンクから影響を受けていてそれを公言しています。ナット・キング・コールが一番認めていたのもハンクでしたからね。ハンクはスイングとかビバップとかスタイルで演奏していない人でした。だから、当時からモダンジャズをやろうとしてきた人にとって、ハンクは憧れの存在だったわけです。歌伴でもあらゆるセッションやサイドマンで引っ張りだこでした。

僕がNYでハンクのライブを観に行くと、客席にはケニー・バロン、バリー・ハリス、シダー・ウォルトン、マルグリュー・ミラーはいるわ(笑)。僕はトミー・フラナガンとは会えなかったけど、彼も生きていれば絶対ハンクを観に来ていただろうし。ピアニストのなかのピアニスト、NY中のピアニストが憧れる存在でした。


海野とハンク・ジョーンズ、2006年9月12日に東京のソニー・ミュージックスタジオにて
「プロデューサー伊藤八十八さんの粋な計らいで、シンガーTiffanyのレコーディングで一曲ハンクと共演する事になり曲のコード確認をする様子。ハンクの特徴的なコード進行や、コードネームの書き方や捉え方に初めて触れられた機会でした」

―海野さんは晩年のハンク・ジョーンズと交流があったんですよね。

海野:そうなんですよ。渡米するにあたって、ハンクを日本に招聘していたプロデューサーの伊藤八十八さんが、僕が大ファンだと知ってハンクを紹介してくれて、来日のたびに僕は熱心に観に行ってました。レコーディングの現場も見学させてもらって、なんと一曲ハンクと共演したこともあります。ハンクもその時から僕を気に入ってくれて、僕の渡米に必要なビザの推薦状も書いてくれた。そのおかげもあって僕は初めからアーティストビザを取得してアメリカに行けたんです。僕は学校に行くために渡米したわけではないですから。

―ジャズミュージシャンでは珍しいですよね、武者修行というか。

海野:そう。NYで暮らして自分が何を感じるんだろうと思って。傍から見たら武者修行になるのかもしれないけど、実際は修行というよりも、小さい頃から憧れてきたレジェンドに会えて交流できたり、と夢が叶うのが楽しくて仕方なかった。知り合いはほとんどいなくて、仕事もゼロからのスタート。でも不思議と不安はありませんでした。時間はたくさんあったので、特にハンクがツアーをしていない時は彼の自宅によく通っていました。

ハンクは家ではあまりジャズを聴きたがりませんでした。ショパンやドビュッシーが好きで、家ではクラシックを聴いたり練習していました。いつ行っても大体ピアノの音が聴こえてくるんですよ。家でスーツを着て、朝7時くらいから夜6時くらいまで弾いていたり。練習の鬼みたいな人でしたね。スーツを着て練習するのは、音楽への敬意からなんです。ハンクのお父さんが厳格な人で、クラシックや教会音楽はいいけれど、ジャズなんて悪魔の音楽だなんていう人だったみたいです。今よりも比較にならないほど黒人差別の厳しい時代に生まれ育ち、その中でピアノを弾けることや音楽に心から感謝しているからこそ、ピアノを弾く時は家でもスーツを着ていたんです。面白いのは、そういう家庭環境にありながらも、弟のサドやエルヴィンはお父さんのことをあまり気にしていないようで、ワイルドに育っているんですよね。持って生まれたそれぞれの性格なんでしょうね。

―海野さんが渡米したのは2008年、当時のハンクはすでに80代ですよね。

海野:80代後半ですね。その頃、「88歳で鍵盤の数と一緒になったから、ようやく少しはピアノのことがわかるようになったかな」と言っていたお茶目なハンクを今でもよく覚えています。


海野とハンク・ジョーンズ、2008年7月7日にNYの自宅でセッション
「憧れのハンクと彼の自宅で何時間も連弾セッション。こんな贅沢な経験は他にはないでしょう。 繊細なタッチや音楽に対する哲学、練習方などを自然と学びました。NYに来てよかったと心から思えた時間でした」

―ハンクのアルバムはたくさんありますが、特に好きなのは?

海野:初めに好きになったのは、ケニー・クラークとやっている『The Trio』という1956年のアルバムです。あの頃の彼の演奏にまずはすごく惚れたので。僕が日本で作った最初のデビューアルバム『Pee Ka Boo!』(2004年)でも取り上げた「We're All Together」という大好きな曲も入っています。あとは、切ない話になっちゃうんですけど……。



―というと?

海野:ハンクには年上の奥さんがいたのですが、アルツハイマーになってしまって、ハンクのことがわからなくなってしまったんです。その時期にハンクが大きな心臓の手術をして、奥さんは施設に入ったので、二人は一緒に暮らせなくなってしまった。

それで、ハンクはロバータ・ガンバリーニ(ハンクとのコラボでも知られるイタリア出身のジャズ歌手)の部屋を間借りしていたのですが、あるときそこでセッションしてくれたんです。(一緒に)連弾をするんですけど、僕は2~3時間で疲れるのに、ハンクはやめようとしないんですね。気づいたら6時間とか7時間になって「そろそろ休憩しなくても大丈夫ですか?」と言っても止まらなくて。ハンクに聞いたら「昔はこんなの当たり前だったから」と。すごくそのセッションを楽しんでくれました。7時間でいったい何曲演奏したのか覚えていませんが、僕は昔からスタンダードが大好きだったので、ハンクのコールする曲をほぼ覚えていたので弾けてほっとしました。その日以来さらに認めてくれたようで、周りのミュージシャンにも僕の話をしてくれたりしていました。セッションを通してハンクから練習方法やタッチ、ハンクならではのコード進行なども学び、まさに夢のような時間でした。

ところで、ハンクの青春時代のスケジュールはめちゃくちゃハードで、最初のギグが夜中の10時か11時から始まって、そのまま朝の5時とか6時になり、そこからさらにメアリー・ルー・ウィリアムスの家に行くと、そこにセロニアス・モンクたちが集まってきてハングアウトして、そのあとはスタジオへ行き、朝10時からレコーディングで、夕方頃に帰ってきて2~3時間だけ寝て、ご飯を食べて、練習してまた夜になったらギグが始まるみたいな感じだったそうです。とにかく演奏し続けていた人なので、僕との6~7時間のセッションなんてチョロいもんだったみたいで(笑)。とにかく集中力が半端ない。それを肌で感じました。ハンクの長年の親友でもあったフランク・ウェスとセッションしていた時にもそう感じたので、あの世代特有のミュージシャンライフだったんだと思います。


海野とフランク・ウェス、2010年頃にNYでの自宅セッションにて
当時、90歳近かったFrankは自宅に若手ミュージシャンを招き、日々セッションをしていました。この世代のミュージシャンは全くの疲れ知らずで、何時間でもセッションをしてくれて、歳を重ね身体は不自由になる事も多い中でも、一度楽器を吹くと誰よりも若々しいフレッシュな演奏で、若手にジャズの精神を最後まで伝え続けてくれました。

―凄まじいエネルギーですね。

海野:で、切ない話にようやく行きますが、それは亡くなった時のことです(2010年)。ハンクは末期がんになっていて、もう手の施しようがないので、病院じゃなくてホスピスという痛みを緩和するケアの方の病棟に入っていました。僕は昼過ぎにキーボードを担いでハンクの病室へ行きました。着いた時にはもういませんでしたが、ちょっと前にフランク・ウェスもお見舞いに来ていたそうです。ハンクは一人で静かに病室にいて、その時は元気そうに見えました。一緒にお話してから持参したキーボードで「We’re All Togeter」を弾いたら喜んでくれて。でも、次第に周りのナース達が慌ただしくなり、僕もそこから離れられなくなり、そして午後9時頃にハンクが僕の手を握ったまま亡くなったんです。まさかその日そこで亡くなるとは思っていませんでしたし、最期に立ち会う事になるとは……今でも不思議でなりません。ハンクはその直前に「I want to go home to practice」(家に帰って練習したい)と言っていて、僕は「Definitely, You can!」(絶対にできますよ!)と励ましたんですけど、そのままふわーっと力が抜けていって。最後の最後まで練習したいと言っていたんですよね。

だから、ハンクはピアノの世界から来てくれた使者で、この世に素晴らしい音楽を伝えてくれた伝道師じゃないかって。僕は本気でそう思っています。

あと、これは今まで誰にも言っていないのですが、ハンクが亡くなった後、悲しみとショックで呆然としているうちに、日付が変わり午前0時を回りました。その時、ハンクが病室に持ってきていた日めくりカレンダーを僕はそっとめくりました。ハンクが生きていた世界で永遠に時間が止まって欲しいという思いと、でも時が進んで行く事は避けられない現実。とても悲しく複雑な気持ちでした。師匠ハンクとの大切な思い出を胸に、まだまだ未熟な僕だけどこの先も生きていくという、何か言葉では言い表せない想いを心の中で誓った夜でした。

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