海野雅威がジャズピアノの歴史と向き合う理由「スタンダードを知らずに自分の曲は書けない」

 
ビル・エヴァンス、ボビー・ティモンズ、ジュニア・マンス

―最初にオスカー・ピーターソン、ビル・エヴァンス、ウィントン・ケリー、レッド・ガーランド、ボビー・ティモンズの名前も挙がりましたが、このあたりが海野さんにとって影響源のボリュームゾーンという感じでしょうか?

海野:そうですね。9歳の頃に、親がアート・ブレイキーを聴きにブルーノート東京へ連れて行ってくれたのが、僕のジャズの原点なんです。その時ライブで聴いたピアニストはまだ10代のジェフリー・キーザーでした。でも、僕が聴いていたアート・ブレイキーは、ボビー・ティモンズが生み出した「Moanin’」の頃のもので。モダンジャズの原風景はそのあたりなので、今でももちろん大好きです。それからトミー・フラナガン、シダー・ウォルトンやモンティ・アレキサンダーもよく聴いていました。そういう「歴史が脈々と続くツリー」に根差している人をたくさん聴いてきましたね。



―特にコピーしたピアニストは?

海野:最初はオスカー・ピーターソンと一緒に合わせて弾いていたりしていました。9歳の頃です。レコードに合わせて一緒に弾くみたいな感じで。それを見ていた親が「この子はジャズが好きなんじゃないか」って気づいて、浅草橋にあるジャズ教室に連れて行ってくれたのが原点です。だから、最初はオスカーとビル・エヴァンス、ボビー・ティモンズでした。

―ビル・エヴァンスはどこが好きですか?

海野:どの時代のビルを聴いても人間味が溢れているんですよ。「My Foolish Heart」など綺麗だなってイメージが一般的だと思いますが、僕の印象はブルージーなんですよね。一音で心までダイレクトに響く。(ピアノが)常に歌っている。彼の「節」があって、常に呼吸を感じます。

―エモーショナルですしね。

海野:それに、とてもスインギーなんですよ。ウィントン・ケリーと比べられて、ビルはバラードの人みたいなイメージがあるかもしれませんが、そもそもスイングしない人がマイルスのバンドに入れるわけがないので。



―もともとバド・パウエルから影響を受けた人でもありますしね。

海野:ビルのトリオにはスコット・ラファロ、ポール・モチアンと結果的に白人が集まったけど、ビルがトリオ結成時に最初に声をかけていたのは、実は黒人の二人で、ジミー・ギャリソンとケニー・デニスだったんですよ。でも、二人とも空いていなくて、その他大勢にも声をかけたけどダメで、回り回って仕方なくラファロとモチアンになった。だから、ビルが白人とトリオを組みたかったという話は結果論なんですよね。マイルスのバンドを去って以降、ビルは白人としか演奏したがらなかったっていうのは、完全な誤解なんです。

―そもそも『Everybody Digs Bill Evans』のように、リズムセクションがアフリカ系アメリカ人の作品もありますし。

海野:はい。サム・ジョーンズとフィリー・ジョーンズですね。ビルはとにかくフィリーが大好きだったし、フィリーもビルが大好きな相思相愛な関係で。まあ、深いドラッグ中毒繋がりっていうのもありますけどね(苦笑)。ビルは人種の壁を超えてやっていけるジャズの希望だったんですよ。ジャズ界に奇跡的に咲いた一輪の希望の花ってフィリーはビルのことを語っていたそうです。

―海野さんがビル・エヴァンスを好きな理由がわかった気がします。

海野:大好きですよ。だから、僕はジミー・コブと演奏できることになった時に「ビルはどうでした?」ってめっちゃ質問しましたから(笑)。

―マイルスの『Kind of Blue』はジミー・コブのドラムがすごいですもんね。

海野:絶妙なんですよね。ジミーは最高にスイングするのはもちろん、繊細で絶妙なんです。例えば「So What」でのマイルスのソロの出だしのシンバル。あれは通称「コブの会心の一撃!」と呼ぶ人もいるぐらい歴史に残る絶妙さなんです。大き過ぎず小さ過ぎず、これしかないっていう完璧な音量、音圧のシンバル。あれはフィリーには出せなかったと思います。

有名な話ですけど、ビルはマイルスがどういうコンセプトのアルバムを作りたいと思っているか知っていた。でも、それ以外のメンバーは、ただ日時だけ言われて、レコーディングするっていうのはわかっていたけど「何をやるんだろう?」って感じでスタジオに集まってきた。そしたら、半年前に辞めたはずのビルが先に来てピアノを弾いて座っていて、現メンバーのウィントン・ケリーも呼ばれていたから、「俺、間違って来ちゃったのかな?」ってウィントンの機嫌が悪くなってしまった。それをジミー・コブがなだめて、「いやいや、お前も呼ばれたんだから絶対にあとで出番があるはずだよ」って。でも、出番はなかなか来なくてウィントンがマイルスに聞いたら「黙ってビルを聴いてろ」ってマイルスに強く言われていたらしくて。マイルスって喧嘩じゃないけど、そういうやり方でテンションを高めさせるのが好きみたいですよね。そして、ビルとウィントンはその後、大親友になった。そういうエピソードを、ジミー・コブに聞くと話してくれるんですよ。


左からパオロ・ベネデッティーニ、ルディ・ヴァン・ゲルダー、ジミー・コブ、海野。2016年6月20日、米ニュージャージー州のヴァン・ゲルダー・スタジオにて(Photo by John Abbott)
「ジミー・コブ最後のリーダートリオ作『Remembering U』録音時。伝説のレコーディングエンジニア、ルディ・ヴァン・ゲルダーの生涯最後のレコーディングでもありました。この時すでに引退していたルディですが、ジミーの長年の親友で、レコーディングを引き受けて下さったおかげで実現しました。ロイ・ハーグローヴもゲストで数曲参加してくれました。その事がきっかけとなり、私はロイ・ハーグローヴ・クインテットのメンバーに迎えられました」


ジミー・コブと海野の共演。2019年11月25日、NYのDizzy’s Clubにて
「『Remembering U』発売記念ライブ。奇しくもジミー・コブとの最後のNYでのライブとなってしまいました。ジミーは僕にとってNYの父で、心の支えでした。渡米してからジミー・トリオのピアニストとして10年間の活動で感じ、学んだ事は計り知れません」



―直接聞いてるのがすごいですね。では、ボビー・ティモンズの好きなところは?

海野:ビバップのランゲージを完全に自分のものにしていて、それが彼のファンキーな持ち味と完全に一体になっている。今も生きていたらどんな演奏をしていたんだろうって思わせてくれますよね。ノリ一辺倒じゃなくて、理知的だし。

―ボビー・ティモンズは「Mornin‘」に代表されるように作曲面でも優れています。

海野:曲も書けるピアニストだったらシダー・ウォルトンが真っ先に浮かびますけど、ボビー・ティモンズもまさにそんな感じですよね。シダーがデビューした時に「次期ボビー・ティモンズ」みたいに言われていたのは、アート・ブレイキーが率いるグループのピアニストの流れというのもあるけど、ボビー・ティモンズの流れを汲むコンポーザー・ピアニストってことでもあったんでしょうね。

現代でこういう存在は大好きなジョージ・ケイブルスですね。ジョージとは新曲を発表前にお互い最近作った曲を弾き合っているんです。ジョージのために僕が書いた曲「Crazy Love」はジョージが特に気に入ってタイトルもつけてくれましたし、彼のアルバム『Too Close For Comfort』でも収録してくれて、とても嬉しかったです。




―ボビー・ティモンズのファンキーさは研究したんですか?

海野:僕はそもそも研究をあまりしないんです。往年のアルバムをレコードで聴くのが好きで、そのフィーリングを真似して弾こうとしたりすることはありますけど、一字一句コピーして弾くというのを実はやったことがない。お勉強になっちゃうのが嫌いなんです(笑)。それよりも楽しみたいので。

―いいですね、昭和のピアニストみたいでかっこいい。

海野:リスナーの気持ちを持ち続けるのは大事だと思うんですよ。ミュージシャンというのは、意識しなくていいことまで細かく聴いちゃっている気がする。それでマニアックな方向に行って、音楽の本質から離れてしまうこともあると思うので。

―リスナー的というのは海野さんの特徴の一つかもしれません。ボビー・ティモンズと近いラインで、好きなジャズピアニストは誰ですか?

海野:ホレス・パーランですね。ハービー・ハンコックはそれ以前のあらゆるエッセンスを身体に入れていて、ハイブリッドな感じがします。で、ハービーのなかにもホレスが聴こえるんですよ。例えば、4thのサウンドとか。ホレスの映像を見ていると、小児麻痺で指が動かなくて、すごい指使いで弾いていてびっくりします。両手を駆使して(ハンデを)克服した人ですよね。そういう強さも大好きですし、何よりもファンキーだし泣ける。音に泣けるピアニストなんです。



―ジャズ喫茶の客みたいなこと言いますね(笑)。

海野:僕はミュージシャン以前にジャズ小僧でファンなので(笑)。あとはジュニア・マンス。実は僕、ジュニアからピアノを引き継ぎまして。ジュニアは渡米した時にすごく助けてくれたんです。彼は毎週月曜日に「Café Loup」でレギュラーのレストランギグやっていたんですね。あの憧れのレジェンドがNYに行けば毎週聴けるんだって。それはNYに来て心からよかったと思える経験の一つでした。ジュニアは本当に日本のことを愛していました。僕が初対面でも、僕が日本から来た若者でピアニスト、しかもジュニアの大ファンって事で受け入れてくれたんです。そんな彼が亡くなったあとに(2021年)、奥様から「ピアノを引き継いでほしい」と連絡があって。今も日々練習していると、何を弾いてもジュニアと繋がっているような感覚があります。

ジュニアは最高のストーリーテラー。最近、自分の演奏はかなりジュニアの影響も受けているなって思っています。メロディの構築の仕方、フレーズの置き方もそうですし、そのフレーズに対して合いの手を打っていたり。一つのラインでずっとやっているのではなくて、ラインに合いの手、ライン、合いの手みたいな立体的なことを、ジュニアはずっとやっていたんですね。

―つまり、コール&レスポンスですよね。

海野:そう、それを一人でやってのけるというか。ジュニアの特徴的な素晴らしい部分の一つだと思います。



ジュニア・マンスと海野。2015年12月27日、NYのCafe Loopにて(Photo by Sayaka Unno)
「毎週月曜日にこの店でヒーローの一人、ジュニアを聴く事ができた事は一生の宝物です。 演奏後には自ら一人一人のお客さんのテーブルまで来て挨拶してくれた温かいジュニア。ある時、ジュニアがツアーで演奏できない時に僕はトラを頼まれ、デイヴィッド・ウォンとDuoで演奏していたところ、なんと最後のセットでジュニアが現れて聴きに来てくれました。ツアーが終わり戻ってきたその足ですぐ奥様と来てくれたのでした。ジュニアは皆に愛されていました」

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