決死のカブール脱出、女優兼監督が語った一部始終

機内でひとりの女性が意識を失い、医者の手当を受けていた

装甲車に乗せられ、空港へ到着するまでに兵士から検査を受けた。空港に着くと、脱出用に手配された大型の軍用機に乗り込んだ。機内には乗組員のほかには25人だけで、混み合った状態の脱出機とは違っていた。

もうカオス状態だった。飛行機に乗ったことを妹へ知らせるためにメールしようとしたが、機内からは送信できなかった。アフガニスタンの家には、撮影現場の写真を残してきた。どんな気持ちで壁に「私はここにいた」と書いたかわかる? ここで何をしていたかという証拠を残したかったの。誰が来ても、たぶんタリバンだと思うけれど、「ああ、ここは女優の部屋だったんだな」とわかるようにね。ささやかな抵抗かもしれないけれど。飛行機が上昇する時に、私はカブールのアパートメントのことを考えていた。

当初、飛行機はドーハへ向かうと告げられた。しかしカタールの米軍基地が超過状態だったので、サウジアラビアに行き先が変更された。基地に着くと多くの米軍兵士に迎えられた。米軍には、脱出するすべてのアフガニスタン人への待遇に感謝したかった。食事と水や歯磨きなど、必要なものをすべて提供してくれた。私はとにかく「ありがとう、ありがとう」と言い続けた。兵士が全員のビザの有無を確認する際に、私に通訳を依頼してきた。兵士は「皆に心配しないよう伝えてくれ。ビザを持っていないからといって処遇が変わる訳ではない。我々はただ名簿を作成したいだけだ」と言った。米軍の対応は素晴らしかった。彼らは即座に、イスラム教徒がお祈りをするための個室を作った。木で壁を組み立てて、礼拝用の敷物や清潔なシートのほか、「タスビーフ」と呼ばれる礼拝用の数珠なども用意してくれた。とても思いやりのある対応だった。

サウジアラビアの米軍基地を離れる直前に、現地の人たちが大皿料理でディナーパーティーを催してくれた。サウジアラビアの人たちの経験に基づく難民に対するイスラム流のもてなしだった。米軍の携行食などではなく、サウジの米とラム肉を使った大皿料理からデザートまで、とても思いやりのこもったもてなしだった。

サウジアラビアには12時間以上滞在し、首都リヤドからドーハへと向かった。私のような米国人とは別に、アフガニスタン国民は、避難先が決まるまで待機する必要があった。多くの国々が、難民の最終的な落ち着き先が決まるまでの支援を申し出てくれていたようだった。

その後、大型の軍用機でクウェートへ移動したが、今回は混み合っていた。暑い機内は人々であふれ、足の踏み場もないほどだった。パニック状態の中、鼻で息をしながらリラックスしようと努めた。ひとりの女性が意識を失い、医者の手当を受けていた。

クウェートからは通常の飛行機でワシントンを経由して、私は西海岸へ飛んだ。私は精神的にショックを受けていて、起きたことを文章にまとめることすらできなかった。すべてが目まぐるしく進み、とても付いていけなかった。

Translated by Smokva Tokyo

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