決死のカブール脱出、女優兼監督が語った一部始終

4歳でアフガニスタンを離れた理由

私はある事件がきっかけで、自分の考えを主張するようになった。2015年、タリバンの自爆テロで56人の若いアフガニスタン兵が亡くなる事件があった。爆破が起きて通りは渋滞したが、数時間後には事件現場を何事もなかったように人々が通り過ぎていく。遺体はすべて回収されたが、道路中が血だらけだった。現場に落ちていたのは血だけではなかった。誰かがすべてをきれいに洗い流した。誰もが衝撃を受けたし、私の人生を変えるような出来事だった。血が流されたからだけではない。あっという間に遺体や血が片付けられたことにショックを受けた。人生は何て儚いのだろう、と感じたわ。簡単に洗い流されてしまうものなのね。

そして私は、「みんなどうして何もしようとしないのかしら」と思った。アフガニスタンの国民は皆貧乏で、社会的にも脆弱だ。誰もが貧しい生活を送っている。文字通り、いじめよ。罪のない人々が殺されている。誰もが生きるのに必死で、自分を守る手段を持たない貧しい人々よ。

私は4歳の時にアフガニスタンを離れた。でも、通りで遊んだり釣りをしたりと、楽しかった思い出があるわ。教師をしていた母が仕事から帰るのを待ち、姿が見えると走っていって抱きついた。幸せな時間だった。母とよく街へ出かけたのも覚えている。母に言わせれば、私はおしゃべりな子どもで、会う人すべてに「何をしているの?」と聞いて回っていたという。

私の子ども時代は共産主義政権で、当時も暗殺が横行していた。問題とされる人々のリストがあって、私の父親もリストに名を連ねていた。

母方の祖父アブドゥル・ワヘド・バレクザイは軍の幹部だったので、家族はアフガニスタンの政治社会とのつながりが深かった。また父方の祖父は、政府の鉱業担当次官だった。私の父母は当時、他のインテリ層の仲間たちと共に、国のあり方についての市民の声を発信していた。だから父は当局の暗殺者リストに入っていたのね。ある時、アフガニスタンとソ連の共産主義政権の兵士が私の家に押し入ってきた。私は初めて見る彼らの姿に驚いて、泣き叫んだわ。そして、彼らは大人をみんな連れ去った。


脚を露わにして頭部も覆わないフェレシュタ・カゼミの容姿に目を見張るブルカを着た女性たち(カブール旧市街シャレ・コーナ地区、2013年)(Photo by Carolyn Cole/"Los Angeles Times"/Getty Images)

私の父は、修士号を取るためにアジアの別の国にいて不在だった。もしも父が家にいたら、殺されていたと思う。私たちは母の政治的なコネを使って出国できた。米国の学校で私は、父親を殺されたという多くのアフガニスタン出身の子どもたちに出会った。私は愕然としたが、もしも私の父がいなかったら家族はどうなっていただろうと考えると、私たちは幸せな方だと感じるわ。

Translated by Smokva Tokyo

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