露軍拘束の米軍事アナリスト、「強奪・脅迫・地下室監禁」の10日間を語る

脱出、息子との再会

2日後、見慣れないふたりのロシア兵が私たちの部屋に入り、移動を命じた。私たちはまた目隠しをされ、10日ぶりに地上に出た。空港から別の場所に移送されることになっていたようだが、思わぬ出来事によってこの計画は頓挫してしまった。

私たちを移送するトラックに向かう途中、空港がウクライナ軍の追撃砲によって攻撃された。私たちを連れていたロシア兵は一目散に逃げ出し、私と妻は目隠しされたまま激しい空爆にさらされた。振り返ってみると、あそこで死ななかったのは奇跡としか言いようがない。どのようにして空爆から身を守っていたかは覚えていないが、空爆が止むとトラックの中に押し込まれた。車内には、寄せ集めのガラクタの山に紛れて私たちのキャリーバッグがふたつあった。

私たちは近くの町に連れて行かれ、ロシア軍が指揮所として使っていた小さな建物の中に入れられた。なかに入ると、第2次世界大戦のナチスの強制収容所を舞台にした映画に出てくるようなシャワーヘッドのないシャワールームに案内された。シャワーが終わると、量は少ないが温かい食事を与えられた。温かい食事は2週間ぶりだ。食事が終わると、ベッドがないので冷たいパイプ椅子に座って寝るようにと指示された。

3月15日——翌朝、私たちはまた車に乗せられた。車は数時間かけて北上し、チョルノービリ(チェルノブイリ)の被爆地域を迂回するように走った。道路には、私たちのカムリのように穴だらけの車の破片が散らばっていた。燃えた装甲車両や延々と続く爆撃の跡、大型車両によって破壊された道路の穴などが目に入る。ウクライナのインフラの復旧と復興には、この先何十年という歳月がかかるだろう。

さらに数時間が過ぎ、私たちは突然何もない場所で車から降りるようにと運転手に言われた。運転手は私たちにパスポートを手渡すと、「いま走ってきた道を戻るとウクライナ、この道をまっすぐ行くとベラルーシだ」と言ってベラルーシの方を指した。「ぐずぐずしてないで、歩いたほうがいい」と運転手が言う。遥か向こうには、人気のない野原と森しか見えない。時刻は午後5時。あと2時間で日没だ。私たちは歩きはじめた。

それからしばらくして、私たちはようやくベラルーシ国境の検問所にたどり着いた。自分たちはウクライナからの難民だと説明する。移民局や税関、保安担当者らの質問が終わると、私たちはようやく国境を越えることができた。ベラルーシでは、人生でもっとも感動的な瞬間が待ち受けていた。赤十字社の職員のタブレット端末を借り、メッセージアプリを介してアントニオに無事を知らせることができたのだ。ようやく愛する息子の声が聞けて、私は本当に幸せだった。

翌日は夜行列車でポーランド国境に近いブレストという街に移動した。ようやく悪夢のような日々が終わったのだ。それから数時間後、私たちはポーランドの首都ワルシャワにいた。まずはイリーナが先に飛行機でアメリカに向かい、数日後に私も後を追った。イースターで学校が休みになると、アントニオがロンドンからアメリカに飛んできてくれた。こうして私たちは、待ちに待った再会を果たした。

「パパ、お帰り」。アントニオが言った。感動で震えながら、私は息子を抱きしめた。「パパは帰ってくる。僕はずっとそう信じて待っていたよ」

from Rolling Stone US

Translated by Shoko Natori

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