露軍拘束の米軍事アナリスト、「強奪・脅迫・地下室監禁」の10日間を語る

衛生条件は、存在しないも同然だった

その後もアントニオはアメリカ、英国、ウクライナのありとあらゆる政府機関の職員と密に連絡を取り合った。キーウでは、救出作戦がまとまりつつあった。ウクライナ軍の特殊部隊がホストメリの空港を襲撃するのだ。

私と妻は、そんなことは何も知らなかった。アントニオと連絡を取る術もない。アントニオは不安でいっぱいで、1日2時間しか寝なかったそうだ。想像を絶する苦しみを味わったに違いない。心の傷の治癒には、長い時間がかかるだろう。

私たちは、良く言えば情報がまったく届かない“真空地帯”にいた。それでも、この戦争が早々に収束しないこともわかっていた。3月初旬の時点で、すでに誰もが——私たちを監視するロシア兵でさえ——戦争の長期化を覚悟した。拘束から数日がたち、私はロシア兵と言葉を交わせるようになっていた。その際、兵士のひとりは「戦闘は4〜5日間だけ。ロシアがウクライナを制圧したら、故郷に帰れる」と、上官に言われたことを明かした。他のロシア兵たちも同じことを言われたそうだ。

私と妻は地下の部屋に拘束されていた。窓はない。ドアはあったが、開けたら撃たれるという恐怖心のせいで開けることはできなかった。部屋はAK-47を抱えたロシア兵によって常に監視されており、数時間ごとに監視役が代わった。ふたりきりでいられるのは、寝ている時だけだった。『冒険野郎マクガイバー』(訳注:1985〜1992年までアメリカで放送されたアクションドラマ)の主人公も匙を投げるほど堅牢なダンジョンだ。

私たちは、ひとり分の大きさしかないペラペラのマットレスで眠った。3月初旬のウクライナはまだ寒い。それなのに、与えられたブランケットは1枚だけだ。私のコートを丸めて枕にし、イリーナの毛皮のコートをブランケットに重ねて我慢するしかなかった。床は岩のように固い。この床のせいで、カムリから飛び降りた時の怪我はますます悪化した。身体的外傷から回復したのは、数カ月後のことだ。

衛生条件は、存在しないも同然だった。空のペットボトルをトイレ代わりに使った。それ以外は、部屋の隅にあるバケツを使う。幸い、蓋のおかげでいくらか悪臭を和らげることはできた。戦闘糧食の供給はあったが、手をつけることは稀だった。「何も食べていないじゃないか」と、部屋に入ってきた将校に言われた。拘束された最初のころは、将校が何度かやってきて私たちを尋問した。

カムリを略奪したロシア兵は、私たちが衣類や所持品を持っていくことを禁じた。それでも勇気あるイリーナは、銃口を向ける兵士に立ち向かい、私の薬といくつかの所持品、日記を持っていくことを認めさせた。こうして私は、悪夢の日々をこの日記に記録している。もしここで命を落としても、いつかアントニオの手に渡るという期待を抱きながら。

私は高血圧症を患っているため、薬は必要不可欠だ。血圧を正常な状態に保つため、旅行ポーチに錠剤を入れて常に持ち歩いている。だが、この近代のダンジョンのような貯蔵室での日々が相当なストレスをかけていたのか、私の血圧は危険な数値を示しはじめた。

ロシア兵たちは、貯蔵室の他の部屋で起きていることを必死に隠そうとしたが、私たちには筒抜けだった。隣の部屋は、重傷度や治療緊急度に応じた傷病者の振り分けを行うトリアージセクションだった。トリアージセクションで働く医師の役目は、負傷者の状態を安定させること。その後、野戦病院に搬送するのだ。私は、重症者や死にゆく人々の声をいまも思い出してしまう。彼らがもがき苦しむ声が頭から離れないのだ。他の兵士たちは、意識と無意識の間を行き来しながら支離滅裂なことをつぶやいていた。モルヒネは、痛みを部分的に和らげることしかできないようだ。


絶望との戦い——英国ケンブリッジの学校に通っていたアントニオさんは、両親がロシア軍の捕虜になったことを知り、すぐに行動を起こす。両親を救い出すため、必死になって関係者と連絡を取った。(COURTESY OF REUBEN F. JOHNSON)

次の瞬間、誰かが何かに梱包用のテープを巻きつける音がした。私は、このテープの用途を知っている。兵士の遺体を収納袋に入れる時、遺体の足首を束ねるのにテープを巻くのだ。何ておぞましい音なんだ、と私はひとりごちた。クレムリンの狂気によってまたひとりの命が失われてしまった。

Translated by Shoko Natori

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