露軍拘束の米軍事アナリスト、「強奪・脅迫・地下室監禁」の10日間を語る

動き始めた救出作戦

拘束中も空爆は毎日のように続いていた。ウクライナ軍は、常に近くでロシア軍と戦っていたのだ。ウクライナ軍は移動と短期間射撃を繰り返す「シュート・アンド・スクート」という戦法で空港を攻撃していたため、ロシア軍が滑走路を修復することは不可能だった。近くで爆発が起きるたび、建物がぐらりと揺れた。真夜中でさえ、ミサイルや追撃砲で攻撃されることもあった。爆発に加えて小銃の音が聞こえるたび、私たちの真上で戦闘が起きているのではないかと不安になった。

ある日、AK-47を抱えて隅に座っていた監視役のロシア兵のもとを別の兵士が訪れ、取引のようなものが行われた。その後、その別の兵士が監視業務についた。その兵士は、戦闘用の防弾チョッキを持って私たちの部屋に入った。建物がウクライナ軍に制圧されるのは時間の問題だった。ロシア軍は、私たちが拘束されている部屋の外で行われるかもしれない最後の銃撃戦の準備に取り掛かった。

ロシア兵たちは、私たちの解放に向けて政府間の交渉が行われていることを知っていたのだろう。それでも彼らは、そんなことは一言も口にしなかった。唯一、私たちのもとを2回だけ訪れたひとりの将校が「ここからの移送を手配中です」と教えてくれたが、事実を話すことを上官から禁じられたのか、二度と彼に会うことはなかった。

ロシア軍の中で私が唯一敬意を抱いたのがトリアージセクションの医師だった。私の治療にあたってくれたのもこの医師だ。知的で誠実で、まともな会話を交わすことができる貴重な相手だった。彼のような人が私たちをこれほど苦しめた軍隊の一員だなんて、半ば信じがたい話だ。

会話を重ねるにつれて、その医師も私と同じ航空史マニアであることがわかった。私たちは、もう博物館でしかお目にかかれないような古い飛行機について延々と語り合った。見たところ医師はまだ28歳くらいだったが、有能で優秀な医師だった。この軍隊にはもったいないくらいだ。

その後の医師の消息は知らない。知っているのは、私たちがホストメリの空港から移送された数日後にウクライナ軍が大々的な攻撃を行い、ロシア軍をせん滅させたことだけだ。この医師もまた、狂気じみた戦争の犠牲者になってしまったのではないかと思うと心が痛む。

私たちが拘束されてから8日がたっていた。その日、首都ワシントン在住の私のウクライナ人の友人からアントニオに連絡があった。友人と私は、キーウで出会った仕事仲間だ。友人は米軍の高官やウクライナと関係のある退役軍人の通訳およびアナリストとして活躍しており、国防総省とも独自のコネクションを持っていた。友人は、解決策があることをアントニオに伝えた。すでにこの件に取り組んでいた国務省の関係者やショプナー少将とも話をしていたのだ。これを機に、救出作戦が動きはじめた。

当時の私たちは何も知らなかったが、実際は多くの人が私たちを救出するために動いてくれていたのだ。

ショプナー少将と妻のマーサ、そしてフロリダ州ボカラトン在住の親友のトッドとレナ・マーケルがトーマス・ガイテンスなどの有力者と連絡を取ってくれた。実業家として成功を収めたガイテンスは、茶会党(訳注:オバマ政権の“大きな政府”路線に反対する保守派の草の根運動)の創設者のひとりだ。ガイテンスはこの件をマルコ・ルビオ上院議員の耳に入れ、トッドのきょうだいのシンディーはテッド・クルーズ上院議員の事務所に連絡した。

その他の友人たちも独自のルートを使って力になってくれた。双胴船のチャーターサービスとクルーズ旅行を展開する会社(レナの勤め先)を営むチャーリー・マウントは、友人のもとを訪れた。チャーリーの友人が誰かに連絡を取ってくれたおかげで——その人の正体は、チャーリー本人しか知らない——チャーリーは「何かが動きはじめる。具体的なことは言えないけど、ここから何かが起きる」と携帯電話を置いて言ったそうだ。

Translated by Shoko Natori

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