死と崩壊が支配するハリコフから逃れる、ひとりのアメリカ人ジャーナリスト

2022年3月1日、ロシア軍の砲撃により破壊されたハリコフの地方市庁舎外の広場の様子。 (Photo by Jack Crosbie)

ウクライナ東部ハリコフでは、はやくも空襲が日常の一部となりつつある。街の中心部も例外ではない。だが、現地時間2月28日の朝、襲撃はさらにエスカレートした。

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ウクライナ東部ドニプロ——ハリコフで大虐殺が起きた28日の朝、私(アメリカ出身の写真家およびジャーナリストのジャック・クロスビー)は心地よいベッドの上で目を覚ました。27日の夜は、ロシア軍の空爆は思っていたほどの脅威ではなかったと自分に言い聞かせながら、7階にあるホテルの客室に置かれたマットレスの上で羽毛布団をかぶって眠りについた。目を覚ますと、数日前から私のドライバーを務めているヴラドにメールを送った。「今日は静かそうですね。これなら無事ドニプロに行けるのでは?」

「そうですね」とヴラドから返信がきた。何通かメールをやり取りし、「OK、準備してください」とゴーサインが出た。私は大急ぎでシャワーを浴び、着替えを済ませた。当面は手の届かない贅沢品となる物たちとの別れを惜しみながら。

荷造りをして、ホテルのロビーに向かった。その途中で、ホテルが無償で提供してくれるミネラルウォーターのペットボトルを2本手にとる。ルームキーを返却するため、フロントに立ち寄った。「昨夜は静かでしたね」と、フロント係のイゴールに尋ねると、彼はうなずいた。家族のことを訊くと、無事だという答えが返ってきた。ハリコフを発つことを伝え、これまでの力添えに感謝した。ヴラドが到着した。私たちは、同僚が来るのを待った。時刻は午前9時半。私たちの計画も街も、すべてが崩れ去った。

この数日間と変わらず、最初のロケット弾は離れた場所に着弾した。突如として、ロビーが騒然とした。米ワシントンポスト紙のチームが戦闘服姿でキャリーバッグを引きながら降りてきた。「もう行かないと」と彼らは言った。「もしよければ、空席もあります」と、英テレグラフ紙とザ・サン紙のチームが相乗りを申し出てくれたので、私たちは同意した。ホテルには、移動手段のない若いフリーランスのジャーナリストたちが数人残されていたため、私たちの代わりに彼らを乗せてほしいとヴラドに頼んだ。彼は首を縦に振ってくれたが、少し困惑しているようだった。「はやく荷造りをするんだ」と、私はふたりの若者に言った。「行こう。あと5分で出発だ」。これが最後のチャンスであることを誰もが疑わなかった。脱出の道は、刻一刻と失われていく。爆発音が徐々に大きくなっていた。

若いジャーナリストたちがヴラドの車に飛び乗るや否や、車は発進した。隣の車に私たちが乗り込もうとすると、駐車場が爆風に包まれた。数ブロック先で爆弾が落ちたのだ。誰もがよろめきながら、身をかがめた。駐車場から一目散に逃げ出し、どうしていいかわからないまま、ホテルのロビーに戻った。ホテルのスタッフは動揺していた。10分ほど前は、この数日間でもっとも平和な日だったというのに。

遠くでまた爆音が響いた。「行け! はやく行くんだ!」。私たちは車内に舞い戻り、身振りでテレグラフ紙のチームに先導を委ねた。道路に空いた穴を避けながら、遅すぎるとも速すぎるとも感じられるスピードで私たちは彼らの後を追って街を出た。道中で、平然と通りを歩く人々を追い越した。日常生活を続ける以外の選択肢がない彼らは、爆弾に慣れてしまったのだ。私たち欧米メディアとともに崩壊間近と見られるハリコフの街から逃げることはできない。


Photo by Jack Crosbie

Translated by Shoko Natori

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