露軍拘束の米軍事アナリスト、「強奪・脅迫・地下室監禁」の10日間を語る

誰かに攻撃されている、という感覚を忘れることができない

キーウ中心部の防空壕で2晩過ごした後、私たちは避難を決意した。幸い、中心部から車で1時間くらいで行ける郊外に友人がいる。空襲がひと段落するまでゲストハウスに泊めてもらえないかと相談すると、友人は快諾してくれた。だが当時の私は、郊外の戦況を把握していなかった。振り返ってみると、私はここでも判断を誤ったわけだ。

友人のゲストハウスに到着してから2日もたたないうちに、ロシア軍とウクライナ軍がキーウ周辺で激戦を繰り広げ、ホストメリの空港が閉鎖された。ミサイルや追撃砲による攻撃によって水道網と電力網が破壊された。無事ゲストハウスまでたどり着けたのはいいが、今度はキーウへの帰路を断たれてしまった。首都攻略を目指すロシア軍の進撃を防ぐため、郊外とキーウをつなぐ橋という橋が破壊されたのだ。私たちは安全な場所を求めてキーウを後にしたつもりだったが、逆に身動きがとれなくなってしまった。武装したロシア兵が周辺一帯を取り囲んでいた。ネズミ一匹さえ逃げられない状況だ。

ロシア軍とウクライナ軍の戦いは、その後も数日にわたって繰り広げられた。爆発音が響く回数も増え、戦闘がいつ終わるかもわからない。悪夢から数カ月がたったいまも、私はちょっとした物音に怯え、隠れる場所を探してしまう。誰かに攻撃されている、という感覚を忘れることができないのだ。

英国では、息子のアントニオが不眠不休で戦況を見守っていた。夜になるとウクライナにいる友人や知人と電話で話し込んでは、彼らの防空壕探しを手伝ったり、戦闘地域から逃れる方法を模索したりした。だが、私たちと連絡をとる手段は限られていた。

電力網が破壊されたため、ガソリン発電機が導入された。それでも、1日に供給できる電力はたった3時間。これではスマートフォンもろくに充電できない。仮に充電できたとしても、階段を上ってゲストハウスの上階まで行かないと電波がない。四六時中、いたるところで何かが爆発しているなか、上階に行くのは自殺行為のように思われた。キーウにいたころは、空襲警報が危険を知らせてくれたおかげで地下の防空壕に避難することができた。だが、郊外の田舎で警報が流れることはない。ミサイルや追撃砲が接近するヒューっという高音が聞こえるくらいだ。

3月2日の水曜日を最後に、私たちとアントニオの連絡は途絶えてしまった。その翌日、私はノートパソコンのバッテリーの残量を使ってロシア軍の苦戦に関する記事を書いた。だが、記事を書き終えることはできなかった。ロシア軍の装甲車両が家の外の道路で停車するたび、私とイリーナ、友人とその家族、家政婦、ベビーシッターは地下室に避難しなければならなかった。ロシア軍は、ウクライナの田舎道に迷っているようだった。

やがてロシア軍はいなくなったが、この出来事といくつかの現実によってこれ以上ゲストハウスに留まるのは不可能のように思えた。私たちはトイレに行くたびに懐中電灯を使い、定期的にシャワーを浴びることもできなかった。それに加えて、近隣には食料を調達できる場所もない。私たちは、キーウ中心部の自宅に戻ることを考えた。世間の予想とは裏腹に、キーウはまだ陥落していなかった。自宅に戻れば、少なくともシャワーを浴びることはできるし、スーパーマーケットも営業している。防空壕で寝なければいけないとしても、ここにいるよりはまだマシだ。

そうして私たちはキーウに戻ることにした。その結果、ロシア軍に捕えられた。

Translated by Shoko Natori

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