「八神純子特集」、東日本大震災を経て誓った“第二の音楽人生”を語る



田家:これはいつ頃、書き上げたんですか?

八神:「ラジオ深夜便」という番組のテーマにも使われたんですけども、曲を募集していると言うので私は2曲出したんです。レコード会社の方が大江千里さんの曲も1曲出していいですかとおっしゃって。そのとき大江さんとお会いしたこともなかったんですけど、曲を聴いてすごく素敵だし、いいですよ、どうせ私の曲が選ばれるんだからなんて思っていたら大江さんのが決まりましたって(笑)。じゃあ歌詞を書こうかなと思って、大江さんと初めてそのときにネット上で繋がったんですね。大江さんが「この曲は実は未完成なので、八神さんが完成させてください」と、ジェントルマンなのでおっしゃってくれて。

田家:花を持たせてくれた(笑)。

八神:そうなんです。歌詞も一緒に書いたんですけど、この曲への想いがすごく強かったのをちゃんと分かってくださっていて、私の歌詞をほとんど通してくださったんですね。最終的には一緒に曲を書いてすごく楽しかったし、2人の友情をずっと繋げてくれている曲です。

田家:卒業ソングだったのは、純子さんが次の時代へ行くためのセレモニーみたいなところもあっての曲だったんだろうなと思いましたけどもね。

八神:はい。私が子育て卒業で、自分の人生をもう一度見直そうと思ったきっかけにこの曲を書きました。

田家:この後に日本に帰ってから被災地でのライブを始めるわけですが、その話は後ほどお伺いしたいと思います。日本でのライブは2011年5月から始められているんでしょ?

八神:5月のライブが11月に震災のため延期になったんです。アメリカに帰って11月にまた出直そうかという気持ちには全くなれなくて、ライブを5月にやる状態でしたから、だったらこのまま東北に行って歌おうと思ったんです。

田家:それはどんな取り掛かり方だったんですか?

八神:ファンの方から「うろうろしていないで八神さんアーティストなんだから何かしてくださいよ」ってメールをいただいたんです。そのメールで目覚めて、こんなときにはできる限りのことをしようと思って、ラジオ局に行って「すみません、出してください」って。アメリカに行っていたので繋がりもないし、ファンの方たちも私がまた活動再開するなんてことを全然知らないので、東北の話を一緒にしたい人、この指とまれってやらせてくださいって名古屋の東海ラジオに行ったんですよ。そしたら出してくださって、どんどんメールが届いて、そんな方たちと一緒に東北に行くことになったんです。

田家:トランスパシフィックキャンペーンという名前がありましたよね。それはご自分で決められて?

八神:そうです。別にNPOでもなんでもないんですけど、参加したい人は誰でも参加できます、できることをやりましょうと。私は歌を歌うので、例えば運転してそこまで連れて行ってほしいとか。機材も用意しなきゃいけなかったり、この活動でいろいろなことを学びました。それまでは何もご縁もなかった方々と繋がり、今でもそのご縁がかけがえのない友情となって、今も東北の街に一緒に出かけていくという活動がずっと続いているんです。

田家:そこからいきなり被災の跡の生々しいところに行って、気持ちを立て直すとか、どうやって自分をコントロールしていたんですか?

八神:今、日本で復帰して約10年経ったんですけれども、今の私に同じことができるかな? と言ったら、もしかしたらできてないかもしれないです。こんなことをしたらという日本人のご迷惑がかかるかもしれないという習慣があるじゃないですか。でも、アメリカでの生活の中で学んだボランティア精神とか、アメリカ人はとにかくボランティアの活動が日常生活の中に入っているので。なので、ラジオからみんなで一緒に行きましょうって、普通私みたいな立場のアーティストが東北に一緒に行きましょうって言わないじゃないですか。

田家:言えないですよね(笑)。

八神:だけど、そのときは全くそれを考えないで行動していたんです。

田家:そうして復帰して2013年6月に発売した1枚目のオリジナルアルバム『Here I am~Head to Toe~』から1曲目の「Here I am」と2曲目の「Take a chance」続けてお聴きいただきます。

Rolling Stone Japan 編集部

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE