高田渡が探った自分のルーツ 佐久間順平とともに振り返る



田家:お聞きいただいているのは、順平さんが歌われている「生活の柄」。去年発売になったソロ・アルバム『世界は愛で出来ている』の中に収録されています。原曲と解釈がかなり違いますね。

佐久間:そうですね。高田さんの曲を歌おうとする人は、どうもちょっとお酒を飲みながら、歌詞カードを抱えて、ぶつぶつ言いながら歌詞を開いて、わけのわからないことを言いながらボソボソ歌うスタイルから入る方が多いんですよ(笑)。高田さんと同じような歌い方になる人が多いんですけど、高田さんは亡くなって16年も経つし、そろそろ卒業して自分なりの解釈で渡の歌を歌っていこうと思ったんです

田家:なるほどね。先程の話の続きになりますが、順平さんは1953年に神奈川県の逗子に生まれて、6歳の時に千葉県の市川の方に引っ越しをされて、高校生の時に林亭を結成し、学生時代は吉祥寺にある「ぐゎらん堂」に入り浸るようになって、そこで渡さんと出会った。どういう出会い方だったんですか?

佐久間:なんとなく僕は彼をものすごく年上に感じていたんですけど、よく考えると3、4歳しか違わないのかな。10も20も離れているように見えていたんですけど、ある時お店で、今は映画監督をやっている小林政広が渡さんの家に遊びに行っていいですか? って話をしていて。大江田信くんとか何人かで三鷹のアパートに行かせてもらうんです。ちゃんと対面したのはそれが最初かな。

田家:1973年に林亭がアルバム『夜だから』をリリースしたあとですか。

佐久間:そのアルバムを聴いてもらって、渡さんがやろうとしていたアメリカン・フォークミュージックやカントリー、マウンテン・ミュージックに日本語を乗せて歌うというスタイルを僕らが真似て、歌詞を書いて歌ってたんですよ。ある種、自分を継承する若い奴が出てきたという感じだったんでしょうね。それで可愛がっていただいて。

田家:順平さんが大学を卒業して一人暮らしをしたのも三鷹だった。それは渡さんがいたからとか。

佐久間:そうですね。あとは仲間もいて、吉祥寺一派と呼ばれているシバとか武蔵野タンポポ団とか、中川五郎さんとか皆あそこら辺にいたもんですから、あそこに行かなくちゃ! と思って三鷹に(笑)。

田家:でもそこまでのめり込んで、側にいて何かを吸収したかったんでしょうね?

佐久間:そうですね。当時はまだ歌謡界とか演歌、民謡とかが主流の時代ですよね。そういうのまで自分ができるとは思っていなかったんですけど、なぜか高田渡を聴いた時にこれならできるかもって思ったんですよ。不遜ですけど。

田家:就職試験も受けずに、大学を卒業して「ぐゎらん堂」組に入った。

佐久間:そうですね。大学4年の時かな? 夏休みに一月かけて高田さんの北海道26カ所でのコンサートツアーに誘ってもらったんです。それは中川五郎さんも一緒で、3人でトラックに乗って回ったんです。あのツアーは忘れられないですね。

田家:それはすごいですよ。続いて順平さんが選ばれた曲は「仕事さがし」。1999年のライブアルバム『Best Live』の1曲目なんですが、これは1995年の上野の水上音楽堂での公演で順平さんがバックをやられています。

Rolling Stone Japan 編集部

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