高田渡が探った自分のルーツ 佐久間順平とともに振り返る

今月は改めて所縁の方を迎えて、彼の軌跡を辿ってみようと思います。今週のゲストは1977年に結成されたバンド、ヒルトップ・ストリングスの一員で、それまでも林亭という二人組で渡さんとステージを共にされていた方。1953年生まれ、ご自身のソロ・アルバムでも渡さんの曲をカバーしている継承者の一人です。息子の高田漣さんとも共演されています。マルチ弦楽器奏者、シンガー・ソングライターの佐久間順平さんです。こんばんは。

佐久間順平(以下、佐久間):こんばんは。よろしくお願いいたします。

田家:17回忌という時間についてどう感じられますか?

佐久間:なんだかんだあっという間という気もするし、ずいぶん長いなという感じもしますね。

田家:佐久間さんはソロ・アルバムを4枚お出しになっていますが、初めてのソロ・アルバムは還暦になってからだったんですね。

佐久間:そうですね。その前に1枚だけライブ盤を出したんですけど、還暦になってちゃんとしたものを作りたいなと思って作り始めたんです。

田家:渡さんが亡くなった後ですよね。渡さんが亡くなったこととご自身がソロ・アルバムを出して歌ったりすることは、どこか影響していたと思っていいですか。

佐久間:日本の歌ということに関して渡さんはずっとそのことばかり考えていたと思うんです。日本の歌というのはどこから言ったらいいか分からないけど、明治の頃から外国の曲に日本語の歌詞をつけて人々に歌わせる明治政府のやり方があったじゃないですか。それから童謡唱歌がうまれたりして、僕らは若い頃も学校で歌わされていたし、ある種のベーシックになっていますよね。そこまでは音楽はあまり商売的に成り立っていなくて、戦後になってから生業になり始めましたよね。そこで職業作曲家・作詞家という人が出てきて。でも、歌い手にとって歌というのはいつも密接にどう歌うか考えていたものだと思うんですよ。渡さんは日本のフォークソングで、どういう歌を作って歌っていくかということをずっと考えていた人だな、と傍で見ていて思うんです。渡さんから学んだことの中にそれがすごく大切なこととしてあって、僕も歌に拘っていきたいなと思って作ったんです。

Rolling Stone Japan 編集部

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