ザ・ピーナッツ、オリジナル・カバーポップスの走りを伊東ゆかりと語る



田家:1960年4月発売「悲しき16才」。アメリカではキャシー・リンデンという人で大ヒットした曲ですね。〈やややーや〉ってのがかわいらしいでしょ。伊東ゆかりさんの曲の中にも〈うぉううぉう〉って歌詞がある。〈やあやあ〉とか〈うぉううぉう〉とか〈シャララ〉っていうのは当時のアメリカンポップスの一つのアイコンでもありました。16歳っていうのがこの頃のキーワードですね。伊東ゆかりさんには「すてきな16才」という歌もあります。

ザ・ピーナッツは、こういうコーラスがとても綺麗にハモっているという意味でも、日本のコーラスグループを代表する一組ではあるんですが、カバーポップス全盛の中で日本語のオリジナルを模索していた2人だったんですね。「情熱の花」のカップリングは、「米山さんから」って歌なんです。ちゃっきり節とかおてもやんなんかも8ビートで歌っている。これはロカビリーの人たち日劇ウエスタンカーニバルで歌った平尾昌晃さんとか山下敬二郎さんとかの男性も民謡を8ビートにする試みをしてるんですね。そういうところから日本語のオリジナルのポップスが始まってきていると言えると思うんですが、ピーナッツ最初のオリジナルのヒットが、この後の後にお聞いただく「ふりむかないで」って曲。その前に「悲しき16才 」のB面をお聴きいただこうと思います。実はこの曲、私が好きだったんですね。 ピーナッツ最初のシングルのオリジナルです。「心の窓にともし灯を」。



田家:ザ・ピーナッツ1960年4月発売「心の窓にともし灯を」。さっきの「悲しき16才」のカップリングだったんですね。私は13歳、14歳で中学生。この歌好きだったな。寂しい中学生だったんでしょうね(笑)。作詞が横井弘さん。伊東ゆかりさんの「パパの日記」を書いた人でもありますね。作曲は中田喜直さん。「小さい秋みつけた」とか「めだかの学校」とか「雪の降るまちを」とかいろいろな名曲があって、学校の教科書にも載っている方ですが、甥っ子さんが細野晴臣さんと大学のバンドで一緒で。細野晴臣さんと大滝詠一さんを引き合わせたのが中田喜直さんの甥っ子だったという、その後のストーリーもあります。

日本のポップミュージックに残した渡辺プロの功績っていうのがいくつかありまして。一つは原盤という形を最初に作ったんですね。クレイジーキャッツでしたけど、レコード会社ではなく自分たちが原盤を作ってレコード会社に渡すシステムを彼らが作った。そしてフリーの作家を多く使ったんですね。それまではレコード会社の専属性があって、作詞家も作曲家も他のレコード会社の仕事はできなかったんですが、渡辺プロはレコード会社に縛られないフリーの人たちをたくさん使った。だから渡辺プロの音楽はいろんな人が共作しているんです。

もう一つはテレビメディアの活用。制作を担当したんですね。『ザ・ヒットパレード』は渡辺プロ制作です。ディレクターがフジテレビのすぎやまこういちさん。1959年6月に放送開始で、そこから洋楽のヒット曲を日本語で歌うランキング番組がテレビで初めてできたんです。ピーナッツはそのレギュラーで、その中でこれを歌ったんだと思うんですね。それで中学生の寂しい心に届いたんでしょうね。そういうカバーポップスが並ぶ中で最初に大ヒットしたのが次の曲。オリジナルです。1962年3月発売、作詞が岩谷時子さん、作曲が宮川泰さん。「ふりむかないで」。



田家:〈イエイイエイイエイ〉ですからね。王道のアメリカンポップスのフォーマットを使っていると言っていいでしょうね。日本の都会的ポップソングのはしりですね。これを聴いたときはドキドキしました。中学生ですから。男女が同じ空間にいる。女性は靴下を直しているんですよ。しかもその靴下は黒い靴下ですよ。子供にとっては見てはいけないもの。男性が「ちょっとあっち向いてて」って言われて直してるって情景を想像するだけで胸がドキドキしてきて、ピーナッツの顔を見て顔が真っ赤になるという少年でしたね。タータンチェックとかロマンスってカタカナが歌詞の中に出てきている。岩谷時子さんが女性の作詞家として決定的な評価を受けるようになった。加山雄三さんとのコンビはこの後ですからね。岩谷時子さんとザ・ピーナッツは切っても切れない関係でした。

Rolling Stone Japan 編集部

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