ザ・ピーナッツ、オリジナル・カバーポップスの走りを伊東ゆかりと語る



田家:ザ・ピーナッツは伊藤エミさんと伊藤ユミさん、双子の姉妹ですね。2人とも1941年生まれ。「伊藤シスターズ」という名前で名古屋のラテン音楽を聞かせるレストランで歌っていた高校生を渡辺プロダクションの渡邊美佐さんがスカウトした。見つけてきたのはジミー竹内さんってドラマーだったそうなんですが、ジミー竹内さんが渡辺プロに「こんな子がいるんですよ!」ということで、美佐さんが行って、その場で東京に来る交通費を置いて行ったという話が有名です。

ザ・ピーナッツの名前をつけたのはピーナッツの話には必ず出てきますテレビ番組『シャボン玉ホリデー』のプロデューサー井原高忠さんでしたね。女性ポップス、女性のデュオでいうと、この人たちで始まって、いまだにこの人たちを超える2人組はいなかったんじゃないかと思わされますね。伊東ゆかりさんは渡辺プロダクションの仲間だったわけで、ゆかりさんの話を聞く前に、ピーナッツのおさらいをちょっとの時間してみようと思います。



田家:ザ・ピーナッツ、1959年9月発売3枚目のシングル「情熱の花」お聴きいただきました。ベートーヴェンの「エリーゼのために」をアレンジした大ヒット曲ですね。オリジナルはイタリアの人気歌手カテリーナ・ヴァレンテが歌ったんですね。60年代のカバーポップスはアメリカの曲が主流でしたけど、アメリカだけじゃなかったんですね。しかもヨーロッパ系の曲で海外で火がついた。日本のポップスが海外で評価された最大の例は坂本九さんの「スキヤキ」「上を向いて歩こう」がビルボード1位になった出来事でしょうね。これが1963年6月なんですが、九さんの「スキヤキ」も最初はヨーロッパだった。イギリスで火がついて、イギリスからアメリカに情報が行って、アメリカのDJがかけてアメリカでヒットした流れだったんです。

ピーナッツは1963年から海外に行き始めて、5年間で8回海外公演。海外で歌っているんですね。それもドイツ、オーストリア、アメリカ、オランダ、ソ連。しかも当時のソ連は日本と国交がない国だったんですけど、国賓級の扱いを受けたという記事が残っております。アメリカではエンターテイメント番組を代表する『エド・サリヴァン・ショー』とか『ダニー・ケイ・ショー』にも招かれて歌ってるんですね。日本のガールポップの走りだった。当時のシンボル的な存在だったと言っていいでしょう。

Rolling Stone Japan 編集部

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