戦後のガールポップ誕生伝説、伊東ゆかりと語る江利チエミ

カモナ・マイ・ハウス(家へおいでよ) / 江利チエミ

田家:1952年1月発売、江利チエミさんの「カモナ・マイ・ハウス(家へおいでよ)」。これはローズマリー・クルーニーがビルボード8週間1位を記録した大ヒット曲なんですね。ジャズとマンボが一緒になったみたいな感じですね。これはデビュー曲『テネシー・ワルツ』のB面だったんです。「テネシー・ワルツ」については後ほど伊東ゆかりさんが解説してくれます。

江利チエミさんは1937年生まれ。伊東ゆかりさんの10歳上ですね。チエミさんが米軍キャンプで歌うようになったのは、なんと1949年。日本が戦争に負けてまだ4年後です。小学校5年生で彼女は米軍キャンプでこういう曲を歌っていた。お父様がピアニストで、米軍キャンプで演奏したんですね。この米軍キャンプの説明をしなければいけないなと思っているんですが、戦後日本に駐留していたアメリカ軍がおりまして、そういう人たちが使っていた施設のことを言うんですね。基地だけではなくて全国の主な建物が米兵用に接収されていたんです。

どのくらいの数があったのかを藤原佑好さんが書いた『江利チエミ物語』の中には、東京と横浜あたりを含めて60カ所っていう数字がありました。内田晃一さんっていう有名なジャズ評論家の『日本のジャズ史』っていう古典があるんですけど、5センチぐらいある本なんですけど、それを見たら東京横浜で83ヶ所以上。すごいですよ、ホテルとかデパートとか劇場とか、日本人がそれまで使っていたところが全部米兵に接収されて、そこが娯楽施設として使われていたんですね。将校用、下士官用、海兵隊用ってランクがあって、そこにミュージシャンが集められて演奏していたんです。83ヶ所以上ですから、少なくとも1会場1バンドのわけがないので、大体2つか3つのバンドや歌い手さんが集められたとすると、80ヶ所だとしたら240組必要になるわけですね。東京だけじゃなくて全国にそういう場所があったわけです。

米軍基地の中には必ずそういう施設があるわけで、一晩で何百って数のミュージシャンが必要になった。足りませんよね。それまで戦争中は日本はジャズ、カントリーが禁止されていたわけですから、当然駆り出される。当然歌い手さんも足りない。で、チエミさんのお父さんはそういうところで演奏するようになって、小学校5年生の彼女も引っ張りだこになった。で人気者になったと。そういう始まりです。江利チエミさんのジャズスタンダードの代表曲をお聞きいただきます。

Rolling Stone Japan 編集部

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