森山良子が語る自身の歌手活動、1974年から1983年まで



田家:作詞山川啓介さん、作曲森山良子さん。レコード会社が変わりますね。フォノグラムからCBS・ソニー、移籍第一弾アルバムがこの曲の入った『幸せのすきま』でした。

森山:当時、レーベルを新しくするのが流行ってたのかな(笑)。

田家:所謂プライベートレーベル、個人レーベルみたいな。

森山:私はそういうことにとんと興味がないんですけれども、周りのスタッフたちが個人レーベル作ろうよ、作ろうよって言って勝手に作ったんです(笑)。

田家:金子さんが(笑)。

森山:あ、そうなの? って感じで、私は。

田家:このアルバム『幸せのすきま』は山川啓介さんと伊藤アキラさんが詞を書いて、詞曲も良子さんが2曲手がけられていたり。詞曲森山良子ってこのへんから増えて来る感じですもんね。

森山:そうですか! 自分からなんかふっと作ろうという意識が全くなかったものですから、なんか作りなさい、作りなさいって言われて。いやー私そんなつもりで歌い手になったつもりじゃないのにって言いながら(笑)。

田家:この曲はやっぱり思い入れがおありになるわけでしょ?

森山:そうですね。山川啓介さんは私のコンサートも構成・演出を手掛けてくださって、いろいろな作品を私にトライさせてくださったんです。ショパンの子犬のワルツにおもしろおかしい詞をつけて、「はいこれ歌いなさい」って。それは今でもずっとコンサートで聴いていただいているんですけれども、森山良子に対するイメージの方向づけを山川さんはすごく大事にしてくださっていたような気がして。私は洋楽好きなので、常に洋楽を何曲か歌っていたんですけれども山川さんが洋楽を和訳してくださると、洋楽のもともとの詞よりもずっとずっと私の心の中に入ってくる。本当は英語で歌ってもいいんですけれども、日本語で歌うことが大事なんだなって。それだけいい和訳をつけてくださったので亡くなってしまって、本当に残念なんですけれども、今でもいっぱい宝物があると思って、それは日々のコンサートで山川さんを思いながら洋楽を歌えるのでうれしいです。

田家:山川啓介さんがそういう方向性をお作りになった。

森山:たぶん何か私の人間性とか、「ミエと良子のショー泥棒」とかそういうのも一緒に作ってくださっていたので、私のことをよく知っているんですよね。

Rolling Stone Japan 編集部

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