ロバート・プラントが語る「ツェッペリン以降」の音楽人生、亡きジョン・ボーナムの思い出

ロバート・プラント(Photo by Mads Perch)


「ポスト・トリップホップ」時代

—アンソロジーの曲目は年代順に並んでいませんが、ヴォーカルの背後に曲と曲をつなぐ音楽の糸が見えます。ご自身は気付いていますか?

プラント:ああ、エネルギーが充満して、相当パワーが凝縮されている。初期のころは、その時々で最高だと思ったものは何でもかんでも取り入れていた。80年代のテクノ革命も……今思えば恐ろしいがな。いや、恐ろしいとは違うか。今振り変えれば、「おいおいロバート、なんでまたあんなクソにわざわざ首つっこんだんだよ?」って言いたくなるが、答えはずばり「強い好奇心とやかましいノイズのせい」。本当、笑えるよ。だが中にはそれなりにうまくいったものもある。俺も長いことこっぱずかしかった。とくに1993年の『フェイト・オブ・ネイションズ』をリリースしてからはね。あれが大きな転換点だったな。つまり、誰しもその時はとくに深く考えてなくて、ただ気の向くままに次々いろんなアイデアや陽気な考えに没頭してるだけなのさ。



—2002年の『ドリームランド』もターニングポイントでしたね。ティム・バックリィの「ソング・トゥ・ザ・サイレン」やヤングブラッズの「ダークネス、ダークネス」などをカバーしていますが、深みを増し、音楽的にも幅が広がりました。当時ご自身の中で何か変化があったんでしょうか?

プラント:90年代中期から後期は、ジミー・ペイジと『ノー・クォーター』プロジェクトや『ウォーキング・イントゥ・クラークスデイル』をしばらくやっていた。確かにあの頃の俺にとって、ビッグなサウンド――オリジナルかどうかはさておき、とにかくビッグなことに挑戦すること――が、なんとなく自然な流れだったんだろう。それで別の道を模索し始めた。Priory of Brionっていう少人数の(カバー)バンドを組んでいたんだが、あれはゴドーを待ちわびる1万5000人をひき連れてジャーマン・インダストリアルな連中の前でプレイすることからの逃げ道だった。当時のマネージャーにも言われたよ、「こいつはひどいな、これじゃあんたから委託料を取るなんて無理だろうな」って。だから俺は言ってやったのさ、「そりゃ良かった、どのみち俺たちは一晩で200人相手にしかプレイするつもりはないからな」って。

ストレンジ・センセーション(当時のバックバンド)を結成したころ、チャーリー・ジョーンズ(Ba)から、ロニ・サイズのところにいたクライヴ・ディーマー(Dr)を紹介された。彼はポーティスヘッドの『ダミー』にも参加していたんだが、ビートの刻み方が独特で、俺の音楽にも取り入れたいと思った。他のメンバーはもちろんだが、彼のドラムはすごく重要だった。それで自分が本当に好きな音楽に立ち戻って、その雰囲気を再現したいと思ったんだ。ジェシ・コリン・ヤング(ヤングブラッズのヴォーカル)の声や彼の歌はどれも60年代後期を代表する曲であるだけじゃなく、単刀直入で重みがある。それで「ダークネス、ダークネス」のような曲をやってみることにした。ティム・バックリィの曲に関しては、コクトー・ツインズが4ADからティス・モータル・コイルとして出てきて、バックリィの「ソング・トゥ・ザ・サイレン」をカバーしたんだが、それがまたすごくいい出来だった。

昔だったら、こういう音楽は絶対やれなかっただろう。当時の環境や音楽業界やミュージシャンの状況は、こういう曲にはそぐわなかっただろう。あのころイギリスにもポスト・トリップホップ系のミュージシャンが出てきていたおかげで、俺も60年代後期のトリップ時代に好きだった曲を再発見することができたんだだけじゃなく、自分でやってみることができた。ここまでくるのに相当長かったよ。おかげでどっぷりつかって、こういう曲を出すことができた。ストレンジ・センセーションは今やスペース・シフターズだけど、何人か交替ややめた人間もいた。柔軟性があったからこそ、俺たちもこういう音楽を取り入れ、再構築することができた。

Translated by Akiko Kato

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