小西康陽が語る、自分の曲を自分で歌う意味「OKと思えるのに40年かかった」

楽器を持たない、ディープなシンガー・ソングライター

—ヴォーカリストはマイクを持って歌うけれど、シンガー・ソングライターは楽器を弾きながら歌う。小西くんの曲は基本、ピアノで作っている?

小西:『カップルズ』(1987年)の時は全曲ギターで作っていた。だんだんピアノになっていって、『女王陛下のピチカート・ファイヴ』の頃からはピアノですね。ピアノは習ったことなくて、大学浪人時代に伯母さんの家で暮らしていた時に、そこにピアノがあって、ローラ・ニーロの曲のコードを探して、覚えました。

—そのピアノ弾き語りは聴けないんですか?

小西:ピアノ弾き語り? それはなぜできないかというと、Cのキーでしか弾けないから。歌う時はそれをFとかに移さないといけない。そこにハードルがあるんですよ。

—いつか自分で歌うだろうというのは、『ホーギー・シングス・カーマイケル』(1956年)みたいなアルバムを思い浮べていたんです。

小西:まさにホーギー・カーマイケルのことはずっと考えていましたね、半年くらい前。細野さんもホーギー・カーマイケルにすごくこだわっていた。


『ホーギー・シングス・カーマイケル』収録曲「わが心のジョージア」

—ホーギー・カーマイケルは間に合ったんですよね、自作自演文化に。もっと時代を遡ると、ピアノの弾き語りというスタイル自体がないんですよ。

小西:ないですね。

—あれは録音できなかったからなんですよ。電気録音の時代になって、マイクを口元に置けるようになる以前は、ピアノの音が大き過ぎて、歌を録音できなかった。ファッツ・ウォーラーはすごく大声のはずだけれど、彼も初期はピアノのレコードしか残していない。ピアノと歌になるのはマイクロフォン以後なんですよね。だから、アーヴィン・バーリンはもともとはシンガーだったのに、『アーヴィン・シングズ・バーリン』はない。

小西:ああ、卓見ですね、素晴らしい。今日はまた、どうせまた健太郎さんに怒られるんだろうと思って、いやいや来たんだけれど、思わぬ発見が。あの、その意味で、さっき岡村詩野さんにインタヴューされながら(Mikikiに掲載)、自分で気づいたことがあって。職業作家がいて、歌手がいるという時代があったじゃないですか。

—ティン・パン・アレイの時代。

小西:そう。それがビートルズやディラン以降の自作自演のカルチャーがあって、そこで分断があったように思うんだけれど、今回のアルバムのスタイルって、自作を歌っているけれど、楽器を持っていないんですよ。そういう歌手って、自分の中で考えてみたら、ひとりしかいないと。

—誰だろう? ハリー・ニルソン?

小西:ロッド・マッキューンなんですよ。彼の「ジーン」という曲も8大名曲のひとつなんですけれど、マッキューンはおびただしい数のアルバムがあって、ライヴ盤もおびただしい数あるけれど、楽器を持たずに歌っている。でも、ロッド・マッキューンはシンガー・ソングライターと考えられていますよね。


ロッド・マッキューン「ジーン」(1969年発表)のパフォーマンス映像

—なるほど、楽器を持たないシンガー・ソングライター。例えば、今回のアルバムで歌った「子供たちの子供たちの子供たちへ」や「メッセージ・ソング」は自分の人生に関わりのある、特定の誰かに向かって、歌いかけている歌ですよね。

小西:まあそうですね。「子供たちの子供たちの子供たちへ」は最初の奥さんと子供と別れる直前に書いた曲。「メッセージソング」というのは離婚調停が終って、何ヶ月かぶりにまた会える日程が決まった時に書いた曲です。

—ディープにシンガー・ソングライター的ですね。

小西:ほとんど日記、クロニクルみたいな。ただ、それは自分のプライベート・ライフを切り売りしても、締め切りに追われて、それを出すしかなかったから。もっと言うと、「美しい星」という曲があるんですけれど(『わたくしの二十世紀』収録)、それは奥さんと別れて、しばらくして、仕事場で仕事してたら、電話がかかってきたんですよ。その電話の向うの喋り方が変わってて、当時、彼女は茨城県の水戸に引っ越してて、もともとは東京の人なのに、そっちの喋り方になっていた。それが凄いショックで、ああ、完全に遠くへ行っちゃったと思って、そうしたら、「いつか僕を想い出して」っていう歌詞が出てきた。


「子供たちの子供たちの子供たちへ」のオリジナルは、1996年のミニ・アルバム『フリーダムのピチカート・ファイヴ』収録


取材が終ってから、数日間、歌を書く人と、歌を歌う人のことをいろいろ考えていた。僕は小西康陽がシンガー・ソングライターとして歌うことを待ち望んでいたのだが、それは彼の自作自演が聴きたかったからだけなのだろうか?と。

が、『前夜 ピチカート・ワン・イン・パースン』を聴き返しながら、あらためて思ったのは、僕は彼の声のトーンに好ましさを感じているということだった。そのトーンは彼の普段の喋り声、あるいは彼の文章ともひと繫がりになっている。好ましさの最大の理由は、そこにあると気づいた。たぶん、彼のラジオ番組や彼の文章に触れてきた人々は、同じ感触を抱くのではないだろうか。このアルバムに当日のMCも収録されているのは、小坂忠&フォージョー・ハーフの『もっともっと』の影響かもしれないが、それも彼のヴォーカル・スタイルからすれば、必然的なものに思われる。

普段の喋り声と歌声の間に距離がない。そういうシンガーの系譜を考えてみると、まず思い浮かぶのはビング・クロスビーだ。彼のラジオ番組の実況盤を聴いてみると、よく分る。ビングはホストとして、様々なゲスト・シンガーとトークするが、歌う段になると、ゲスト・シンガーは歌手の声になって、歌い上げる。ところが、ビングは喋りと歌がシームレスで、どららも変わりなく、滑らかで、控えめなトーンを保っている。それがリスナーに親密さを感じさせ、ビングはラジオ番組を通じて、大人気を獲得していったのだ。


ラジオ番組「ビング・クロスビー・ショー」の音源


アート・ジルハムの1925年の録音

では、ビングのそんな歌唱法のルーツは?というと、これはシンガー・ソングライターと繫がってくる。ビング・クロスビーはマイクロフォンを効果的に使ったクルーナー唱法の創始者と言われるが、彼以前にもクルーナーな唱法を聴かせるシンガー達はいた。そして、彼らは楽器とともに、小さめの声で弾き語る自作自演歌手だった。ピアノ弾き語りならアート・ジルハム、ジーン・オースティン、ギター弾き語りならニック・ルーカス、ウクレレ弾き語りのクリフ・エドワーズもいた。

ホーギー・カーマイケルもその系譜に数えることができる。しかし、もう少し世代が上のソングライターになると、彼らの自作自演の録音を聴くことはできなくなる。ジョージ・ガーシュウィンもアーヴィン・バーリンもピアノに向かって、歌いながら曲を作っていたに違いないが、彼らの歌声を知ることはできないのだ。

小西康陽も僕も1950年代の生まれで、1970年代のシンガー・ソングライター文化に強い影響を受けているのだが、今回のアルバムで聴けた彼の歌唱は、もっと時代を遡ったソングライター達の声のようにも思えた。僕はそれに震えた。このライヴがあったことは知らなかったのだが、その場に居合わせていたら、間違いなく泣いていたと思う。




PIZZICATO ONE
『前夜 ピチカート・ワン・イン・パースン』
発売中
試聴・購入:https://jazz.lnk.to/GKnipPR

※アナログ盤は2020年9月26日(土)リリース
12インチLPと7インチ・シングルの2枚組
スリーブに小西康陽の直筆サイン入りカードが封入

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