小西康陽が語る、自分の曲を自分で歌う意味「OKと思えるのに40年かかった」

自分の人生を歌にしてきた「作曲家・小西康陽」

—2015年の『わたくしの二十世紀』で1曲、「ゴンドラの歌」を自分で歌いましたよね。あれを聴いた時から、次は自分で歌うアルバムを作るんじゃないかとは思っていたんです。でも、それがライヴ・アルバムという形になったのは、なぜだったんですか?

小西:最初に全曲歌うライヴをやったのは、そのアルバムが出た年の暮れに、サニーデイ・サービスの曽我部(恵一)さんが誘ってくれたんです。リキッドルームでツーマンでやりましょうと。ただね、ヴォーカリストを誘う予算がなくて、それで全曲、自分で歌ったんですね。

—予算がなくて、仕方なく?

小西:そうですね。でも、今回、ゲスト・ヴォーカルを入れてたら、アルバムとして成立しなかったとは思う。

—ピチカート・ファイヴ時代も何曲かは歌っていましたよね。あの頃から、いつかは自分で歌うアルバムを作ると考えていました?

小西:いや、まったく考えてなかった。最初に歌ったのは『女王陛下のピチカート・ファイヴ』(1989年)ですけれど、田島(貴男)くん、高浪(慶太郎)くんが歌う中に1曲くらい入っているのもいいかなという。リンゴ・スターが1曲歌うくらいの。


Photo by Kenju Uyama

—今回のアルバムは選曲は、作曲家として、自身のマスター・ピースを選んだと言っていいですか? それとも自分が歌手として歌うことを前提に選んだ?

小西:う~ん、そのふたつの合体かな。自分で歌うには似合わない曲は外して、今回、贅沢したピアノとヴィブラフォンとギターのアンサンブルを生かしやすい曲を選びました。自分のキャリアの中から傑作を選んだというのではないですね。「東京は夜の七時」とかさ、自分では最初のところが歌えないですから。

—僕が小西康陽という作曲家に対して抱いていた印象は、ポップでスタイリッシュな音楽を作っているように見えながら、特にピチカート・ファイヴ時代の後半はそうですけれど、その中にしばしば、プライベートでエモーショナルな曲が含まれている。こんな歌詞を野宮真貴さんに歌わせるんだと思ったことも、しばしばあるんだけれど、そういう曲と今回のアルバムの選曲は結びついているように思いました。

小西:まさにそうですね。

—シンガー・ソングライターになろうとは思わなかったけれど、結果として、自分の人生を歌にしていた。これは意図的なものだったんですか?

小西:意図的ではなかったです。野宮さんと最初に作った『女性上位時代』(1991年)の頃には、野宮さんという対象をみて、どんどん曲が湧き上がってきた。でも、そういう風にいられたのは、アルバム3枚くらいだった。年に一枚アルバム作るという契約で、最初にシングル向きの曲を書いて、それからアルバムの曲を揃えるという時に、もう野宮さんのイメージだけでは書き切れない、となっていった。で、その時にぱっと自分の中から出てきたのは、歌詞はほとんど自分のプライベートなことに近いもので、一人称も「ぼく」になってたりするんですけれど それを野宮さんに歌ってもらったら、割と面白かったんです。それで中盤からそういう曲が増えて、後半はそういう曲ばかりになった。野宮さんの素晴らしいところは 渡した曲に対して、絶対、これはどういう意味なのとか、どういう風に歌ったらいいのとか、一切聞かないところですね。とにかく渡されたら歌うという人だったので。

—そういう野宮さんの歌唱によって、プライベートな部分やエモーショナルな部分が無化される?

小西:そうそう。



「また恋におちてしまった」のオリジナルは、1999年作『ピチカート・ファイヴ』収録

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