PaleduskのDAIDAIが語る、音楽ルーツと創作の裏側(BMTHオリーのコメントあり)

DAIDAI:Photo by cherry chill will., Styling by Yudai Murakoshi (blackmeans/non mèrci) , Hair & Make-up by RIN. (from MEYTOKYO), MADDY

サマーソニックに出演が決まったブリング・ミー・ザ・ホライズンの「AmEN! (feat. Lil Uzi Vert and Daryl Palumbo of Glassjaw)」「DArkSide」「Kool-Aid」、リル・ウージー・ヴァートの「The End (feat. BABYMETAL)」を手がけたことで、2023年、いきなり世界の音楽の最先端から注目を集めることとなったDAIDAI。音楽活動のメインであるバンドのPaleduskでは、コンポーザーとギタリストを務めているが、Paleduskからして、今のロック・シーンにおいて最も革新的な音楽をやっている新世代の最重要バンドなのだ。

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2月21日には約3年ぶりのEP『PALEHELL』をリリース。その根底にはハードロック、メタルコア、ハードコアをひっくるめたロックがありつつも、ヒップホップ、エレクトロニック、ハイパーポップなどなど、ジャンル名を出すのが無意味なほど、ボーダーレスで限界を知らない自由な音楽を、最先端のサウンドで表現している。Paleduskはインディペンデントのまま海外に飛び出して、リリースもツアー、フェス出演も行うなど、快進撃が始まっているが、DAIDAI個人の方も、水面化の動きも含めて、様々なプロジェクトで多様なプロデュース業が進んでいる。DAIDAIにクローズアップをしてみた。



ーバックグラウンドから聞きたいのですが、元々はピアノをやっていて、ロックに興味を持ったのは、中学の担任の先生がきっかけだったんですよね。

DAIDAI そうです。担任の先生が昼は中高の教師をやってて、夜はハードロック・バンドでギターをやってる人だったんですよ。先生から「ロックもいいぞ」って言われて。ある時、「ライブがあるから来いよ」って言われて観に行ったら、中1の時なんですけど、衝撃を受けて、鬼刺さりしちゃって。「先生、これヤバい」って言ったら、放課後に「これを聴きなさい」という課外授業をやってもらうことになって。それ目的に学校に行ってました(笑)。最初は聴くのが楽しかったんですけど、自分でもギターを弾きたいなって気持ちになって。中3の時に親にギターをねだって、誕生日に買ってもらって。高1からギターを始めました。

ー最初はどういう曲をコピーしました?

DAIDAI 一番最初にコピーした曲は、ボン・ジョヴィの「Livin' On A Prayer」です。その後、自分で耳コピしようと思って弾いたのは木村カエラさんの曲でした。先生はMr.BIGが好きな人だったので、ポール・ギルバートにハマって。そこから、エクストリームとかヌーノ・ベッテンコートがヤバいってなったんですけど、難しすぎて弾けませんでしたね。いろいろ聴きあさってみたし、好きだからひたすらやってたんですけど、途中から気づいたのは、好きなギタリストたちが上手すぎて、コピーしても弾けないってことで。だったら自分で曲を作っちゃえばいいと思ったんですよ。それで、ギターを始めて半年ぐらいの時に、もろパクリの曲の、難しいパート排除版みたいな曲をいっぱい作ったんです。そこからどんどん作曲をするのが好きになっていきました。

ー大学はアメリカに行ったんですよね。

DAIDAI それも先生の影響なんです。先生がアメリカのLAMA(現・LACM/Los Angeles College of Music)に、英語の勉強とギターで留学してたんです。それはポール・ギルバートの先生でフランク・ギャンバレというギタリストの下で勉強したかったからで。自分もLAMAに行こうと思ったんですけど、入学する年にフランク・ギャンバレは先生を辞めてしまって。それで、ポール・ギルバートが昔先生をやってた、MI(Musicians Institute)の本校に4年間通うことになりました。

ーアメリカから帰国してから、すぐにPaleduskに加入しましたよね。その何年も前に、Paleduskのボーカル、Kaitoとの出会いがあるんですよね。

DAIDAI 自分が高3の時で、Kaitoが中3の時です。高校でギターを始めて、バンドをしたいってなって。留学のことを調べたら、金がめちゃかかるというのがわかって。うちの親は出してくれないだろうとは思ったんですけど、働きながら通うのは違うと思ったので。親の心をどうやって動かせるだろうと考えて、とりあえずバンドを組んで、親に本気度を見せようと思ったんです。当時、福岡で人気のバンドで、彼女 IN THE DISPLAYというのがいて。ライブハウスのフライヤーに「結成1年でワンマン、150人動員」って書いてあったんですよ。これを高校生が半年でやれば、福岡で目立てるだろうなと思って。曲もないのに半年後にBEAT STATIONというライブハウスを押さえたんですよ。mixiとかライブハウスでメンバーをかき集めて、同じ吹奏楽部でコントラバスを弾いてる先輩にエレキベースを持たせて。バンドを組んで、半年でMVも3本作って、友達を山ほど呼んで、300人集めたんです。その時のお客さんの一人にKaitoがいたんですよ。

ー最初にKaitoと出会った時の印象は?

DAIDAI イモくさかったですね。そのまま畑から出てきたみたいで(笑)。それで、ライブをした次の日に、BEAT STATIONにcoldrain、SiM、FAKE FACEが来てたんですよ。BEAT STATIONに観に行って、荷物をロッカーに入れてたら、ポンポンって肩を叩かれて。後ろを見たらイモが立ってたんですよ。「昨日ライブに行きました。ファンです。長井海人と申します」って。「若いね、何歳?」って聞いたら、「中3」って答えて。「ライブ一緒に観ようよ」って言って。そこから仲良くなりました。

ー10月に出した曲「RUMBLE feat. Masato from coldrain」では、coldrainのMasatoをフィーチャーしていますが、今の話を聞くと感慨深いものがありますね。

DAIDAI そういうストーリーがあったので、Masatoさんを入れました。coldrainがいたから今のPaleduskはあるので。2023年は、自分がこの10何年間、音楽を始めてからの人生のいろんな伏線を回収した1年だったので。今の感情は今しか書けない曲があると思って作った曲なんです。メンバーにもちょっと無理を言って、「自分のことを思いっきりぶつけてもいい?」って言って。だからフィーチャリングも、絶対Masatoさんにしたくて。Masatoさんもその話を知ってくれてたので、快諾してくれて出来た作品ですね。



ーアメリカにいた間も、Kaitoとはけっこう話をしていたんですか?

DAIDAI アメリカに行ってる4年間はずっと連絡を取り合ってました。その頃からKaitoが一緒にバンドをやりたいって誘ってくれてたんですよ。でも自分は普通に世界で活動したいと思ってたので、日本に戻るのは違うなと思ってたんです。それがKaitoといろいろ話をしていくうちに、いろいろ自分でも世界でやるビジョンが明確化されてきて。日本に帰ってやった方が世界にすぐ行けるんだというのに途中から気がついて。日本は小さい国だし、音楽をやってる人も少ないですけど、各々が個性的で、オンリーワンが多いなと思って。ガラパゴス的な面白さもあるし、ライバルが少ないから日本代表になりやすいなと思ったんです。逆に世界に出るなら、アメリカにいるよりも日本で活動した方が、ユニークなインプットもありつつ、すぐに日本代表として世界に行けるかもと思って。日本に帰ってすぐにKaitoと一緒にバンドをやろうと思って、帰ってきましたね。

ーもうその時からビジョンはちゃんとあったんですね。

DAIDAI ありました。

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