「33回刺した」16歳の女性死刑囚なぜ死刑を免れることができたのか? 米

1950年代に労働階級の黒人世帯が集まってできたプラスキ集落の一画、マーシャルタウンにその家はあった。小さな庭付きのこぎれいな農場風の一軒家が立ち並ぶ通りのひとつだ。西に1マイル行くとミッドタウン、別名セントラル・ディストリクトがある。かつてゲーリーの黒人コミュニティ全体がこの地区に、他とは分断されて暮らしていた。ミッドタウンを1マイルほど入ると、街を南北に貫くブロードウェイがある。4車線の通りを北に行ったダウンタウンは、時代とともに建物が崩壊している。飾りレンガのデパートも、子ども服の店も、別のレンガ造りのデパートも、今では板が打ち付けられている。大手地方銀行のグレコローマン様式のファサードは放置され、色あせている。住人は今もここで買い物をしているが、どこも入り口やディスプレイ用のウィンドウに鉄製のアコーディオン扉が降ろされたままだ。店舗も次から次へと店じまいするか、白人が住む南のショッピングモールに移転していった。

黄色い家に住む姉妹のうち、ポーラのほうが大人しく、弱々しくて、子どもで、いくじなしで――姉は妹をそうとらえていた――ロンダが仕切っていた。2人の家は通っていたベスーン小学校の角にあり、家から学校まで走ってすぐだった。ポーラは放課後いつもけんかに巻き込まれるので、これは好都合だった。つまり、ポーラはけんかをふっかけては収拾がつかなくなり、怒った2~3人の女の子に追いかけられながら家に駆け戻る。妹が女の子たちを姉に差し向けるので、ロンダが後始末をつけなければならなかった。

ポーラはけんかはダメだったが、ダンスはできた。家に2人だけの時は、いつも音楽をかけた。ロンダはシリアルの箱からジャクソン5のレコードを取り出し、何度も何度もかけた。ポーラは姉に新しいステップを教えようとしたが、ぶざまだった。「だめよ、ロンダ。ここでビートに乗るのよ。ほらここ。さあ早く、ロンダ、ビートに乗って!」

2人はこの界隈が好きだった。子どもたちが多く、放課後に自転車に乗ったり、近所で遊んだりしていた。だが、姉妹は他の子どもたちと距離を置いていた。誰かを家にあげてはならず、姉妹もまた他の子どもの家には行かせてもらえなかった。2人はただ家の中でじっと過ごすしかなかった。それで2人は、玄関先でも友人と遊べるゲームを考案した。

昼も夜も、当然のようにロンダはポーラのお守り役を務めた。母親は研究室の技術者としてメソジスト病院で長時間勤務し、父親のハーマンはどこにいるかもわからなかった。ロンダは毎朝ポーラを起こし、学校に行く支度をさせた。朝食用のビスケットを作り、宿題の合間を縫って夕飯を作った。

ハーマン・クーパーは一度家を出ると何週間も姿を見せなかった。気が向くままに家を行ったり来たりした。家にいる時は娘たちを何度も殴った――時には電気コードで、時にはベルトで、時には拳で。寝室に娘たちを呼びつけ、全裸で外に出るよう命じた――そうすれば鞭で打った時の感触が分かるだろう、と父親は言った。グロリアは酒浸りだった。時には彼女が夫を締め出し、義父が仲裁に入ることもあった。ポーラとロンダは夫婦が深夜に叫び合うのを壁越しに聞いた。

グロリアと夫は、別居してはよりを戻すのを繰り返した。別居中のある時期、グロリアは早朝に娘たちをガレージに連れていき、車に乗せて、エンジンをかけた。数か月後、ロンダは実の父親がハーマンではなく「ロンおじさん」だと知った。何度か家にも立ち寄ったことのある気さくな伯父だ。虐待は彼女に集中していたが、ロンダはようやく納得した。父親が自分をあんな目に遭わせるのは、自分が実の子どもではないからだ。自分を大事にする義務など感じていないからだ、と。

ロンダとポーラは家出したが、警察によってグロリアの元に連れ戻された。その後も家出未遂は続き、少女たちはあちこちのホームに預けられた。ジャクソン5の家から3ブロック半離れたところにある「テルマ・マーシャル養護ホーム」の時もあれば、緊急シェルターや養父母の家の時もあったが、どれも一時的だった。それが制度のねらいで、子どもは親元に置くのが最善だという考えがベースにあり、時には仕事で手一杯のお役所の人間に託された。ロンダの父親がどうすれば姉妹を引き取れるかと尋ねられたケースワーカーは、両親ともども「クレイジー」なので、面倒を起こされて6カ月後に控えた退職に響くと困る、と言った。

結局ロンダは14歳の時、実の父親に引き取られた。グロリアは止めもしなかった。ロンダは妹を置いたまま黄色い家を出て、それきり戻ってこなかった。

Akiko Kato

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