The 1975、リナ・サワヤマ擁する「Dirty Hit」レーベルオーナーが明かす革命の裏側

ジェイミー・オボーン(Photo by Jenn Five)

The 1975、リナ・サワヤマ、ビーバドゥービーなどを擁するDirty Hitが、世界有数のドリームチームになった背景とは? The 1975のマネージャーも務めるレーベルオーナー、ジェイミー・オボーン(Jamie Oborne)が成功までの道のりと「アーティスト・ファースト」の信条を語る。

「こういう取材を受けるといつも、自分が理想論ばかり語っているんじゃないかと不安になるけど、これは自分の経験に基づいた話なんだ」。ジェイミー・オボーンは取材の途中、穏やかな口調でそう語った。彼が世界でも指折りのインディレーベルを築き上げ、世界でもっとも誠実かつ大胆不敵なバンドのマネージャーを務めてこれた理由が、その一言からも伝わってきた。

失敗を恐れず、ステレオタイプにとらわれず、気高い志を掲げながら音楽シーンのルールを塗り替えてきたDirty Hitの物語は、ジェイミーが既存の産業構造に失望し、キャリアにおける失敗の反省を踏まえながら、あらゆるレーベルから見放されていたThe 1975の居場所をつくるところから始まった。アーティストの勇気と個性を尊び、理想主義的ともいえる運営方針を貫いてきた47歳のキーパーソンに、8月中旬のサマーソニック出演に向けた日本滞在中、東京のホテルで話を訊いた。




レーベルの歩みとレーベルカラーをおさらい
Dirty Hitは2009年12月、ジェイミー・オボーンとブライアン・スミス、元サッカー選手のウーゴ・エヒオグによって設立。英国No.1バンドとなったThe 1975、マーキュリー・プライズ受賞と全英チャート1位の両方を成し遂げたウルフ・アリスが成功の礎を築き、2010年代後半にはペイル・ウェーヴスなどの野心的ロック・アクトや、近年のベッドルーム・ポップ隆盛を先駆けたジャパニーズ・ハウスと契約。さらにここ数年は、共にアジア系のルーツを持つリナ・サワヤマやビーバドゥービーなど、人種・国籍からサウンドに至るまで多様性に富んだ新世代が台頭している。流通面では大手レコード会社の力も借りつつ、クリエイティブ面の主導権を掌握し、アーティストの個性を何よりも尊重。レーベルメイト間で積極的にコラボし合い、家族のような絆で結ばれていることも大きな特徴だろう。


Dirty Hit所属アーティストの楽曲をまとめたプレイリスト


Dirty Hitの設立前夜

―息子さんとこのホテル(パークハイアット東京)で『ロスト・イン・トランスレーション』ごっごしている光景をInstagramに投稿していましたが、彼はあなたの仕事をどんなふうに思っているみたいですか。

ジェイミー:普通ではない仕事をしているのはわかっているんじゃないかな(笑)。不思議なことに、息子は生まれながらにして音楽の才能がありながら、音楽に興味がなくて、サッカーをやっているほうが好きみたいだ。逆に、娘は私に似て、心の中ではミュージシャンで、音楽にかなり興味がある。

息子は日本のカルチャーが大好きで、僕が学校の夏休み中に日本へ行くことを知り、一緒に来たいと言ってきた。特にイギリスでは誰もが少年の頃、一度は日本に夢中になる時期がある。それこそ僕も12歳の頃、日本の文化に夢中だった。漫画やアニメもそうだし、侍や武士、空手といったものまで。どれも別世界のようでワクワクさせられるし、欧米人からすると遠く離れた、魔法のような場所に感じる。欧米とアジアはお互いの文化から影響し合っているところが面白いよね。

―Dirty Hitと日本の繋がりも深いですよね。The 1975のマシューは日本のカルチャーにも精通していますし、所属アーティストでいえばリナ・サワヤマ、最近はサヤ・グレイ(Saya Gray)も活躍しています。

ジェイミー:そうだね。でも意図してこうなったわけじゃない。僕らは自分たちが気に入ったアーティストと契約しているだけ。サヤ・グレイにしても、まずは彼女の音楽に惚れ込んだ。彼女が日本人とのミックスだということは後からついてきたものだ。リナもそう。初めて会った時、計り知れない才能を感じた。彼女が日本人であることはさほど重要ではなかった。レーベルとして誰と仕事をするかは、地理的条件より僕のテイストに合っているかどうかが何より重要だ。とはいえ、日本はいつだって僕たちに対して寛容だし、僕の音楽的テイストが日本人のテイストと似てるのかもしれないね。


カナダ人と日本人の両親を持つサヤ・グレイは、今年6月に1stアルバム『19 MATTERS』をリリース

―あなた自身は10代の頃、どんな音楽に夢中だったのでしょう?

ジェイミー:最初はおそらくパブリック・エネミーかな。他にも当時のヒップホップ・グループ、ステッツァソニックやRUN DMC、NWAなんかも好きだったよ。そこからDef Jamを知り、ビースティー・ボーイズにも結構ハマった。その後は方向転換して、スミスを長い間夢中で聴いていた。他にもキュアーとかもね。そして1989年頃になると、今度はストーン・ローゼズを発見して、ブリティッシュ・カルチャーがまた重要に思えてきた。彼らをきっかけにレイヴ・シーンが盛り上がり、僕もまだ若かったけどそこに関わるようになった。自分が一番影響を受けた作品はストーン・ローゼズの1stアルバムだ。

―もともと18歳〜22歳までミュージシャンとして活動したあと、アーティスト活動を断念して勉強し直し、2006年に「All On Red」というマネージメント会社を立ち上げたそうですね。当時の話を聞かせてください。

ジェイミー:実家を出たのが16歳くらいの時で、しばらくフラフラしていた。そこからバンドでプレイするようになり、レコード契約も果たした。特にパッとしなかったけどね。それから君が言ったように、勉強し直すことにした(哲学と現代イギリス文学を専攻)。大学を卒業してからは音楽に携わる仕事がしたかったけど、またアーティストとして活動するのは違う気がしたんだ。自分は控えめな性格だから、人から注目されるのはあまり好きじゃない。要するに向いてなかった。

それである日、友達と話をしていたとき、僕がいたバンドがどうしてうまくいかなかったのかと聞かれて、当時のマネージメントの話をした。彼らのやり方は、まず大勢のアーティストと契約したあと、何もせず様子を見て、何か芽が出るものがあったらそれをプッシュするというものだ。でも、あのときの僕らがほしかったのは、自分たちを育てつつサポートしてくれるようなマネージメントだった。

友達にもそう説明して、結果的にその夜、二人でマネージメント会社を立ち上げることにした。少数精鋭で、何よりアーティストを育てることを優先する会社にしようと決めた。アーティストの成長を助けるための投資をしようって。その数週間後にはアーティストを見つけて、メジャーレーベルと契約を取り付けた。正直、全てが手探りだったけどね(笑)。



―その時期にもヒットを出したそうですね。あなたが携わったUKバンド、ワン・ナイト・オンリーによる2008年の曲「Just For Tonight」が全英9位に。

ジェイミー:そうだったね。レコードの売り出し方のノウハウはわかっていなかったかもしれないけど、PRの重要性はわかっていた。誰も話題にしていなければ、誰の目にも止まらないというのは直感でわかっていたんだ。だから話題作りに力を入れたし、幸いなことに優れた曲を持つアーティストにも恵まれた。でも、これはメジャーレーベルでの話だ。このとき学んだのは、メジャーと契約する前と後では交わされる会話が全く違うということ。(契約後は)アーティストの展望やビジョンを自分たちで掌握できなくなってしまうと知った。なぜなら、金融畑でずっとキャリアを積んできた人たちが、アートについて判断を下す仕組みになっているから。金融とアートの世界では考え方がまるで違う。そんな経験から、UKのメジャーレーベルの仕組みに失望したんだ。

Translated by Yuriko Banno

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