デュラン・デュランが語る、80年代が特別だった理由、革新的であり続けるためのバンド論

アメリカへの憧れ、ブレイクスルーの瞬間

ーみなさんは最初から異なるタイプの音楽をミックスしていましたね。特にパンクロックとディスコの融合は、アメリカでは心を揺さぶる革命となりました。

サイモン:本当にうまくいったよね。アメリカでは特に効果的だった。イギリスやヨーロッパよりもアメリカの方がうまくいったと思う。

ニック:(自分たちの音楽が受け入れられるのは)時間がかかったね。僕らがアメリカに来たとき、ラジオはとても奇妙な風景に映った。というのも、ラジオはしばらくの間、ずっと同じような内容だったから。

サイモン:彼らは、僕らの音楽をどこに入れたらいいのかわからなかった。ダンスやアーバンと括るには白人的すぎるし、ロックステーションにとってはアーバンでダンスっぽいから。

ジョン:「Hungry Like The Wolf」は、まさにFMラジオに引っかかってきた曲だった。

ロジャー:当時、同時代のバンドはほとんどギターを使っていなかったからね。イギリスでギターバンドとシンセバンドをミックスしたのは僕らだけだった。アンディはAC/DCが大好きだったから、その影響をサウンドに取り入れようとしたんだけど、結果的にそれがアメリカで受け入れられた理由だと思っている。



ニック:僕らは最初から、アメリカに行きたいと決めていた。それは大きな挑戦だった。イギリスのメガバンドといえば、レッド・ツェッペリンのようなバンドが最後で、それ以降、扉を打ち破った人は出てこなかった。僕らは「第2の波」のような形でアメリカにやってきた。ここにはたくさんの人々がいた。ビリー・アイドル、ポリス、ザ・キュアー、そしてラジオで自分の道を見つけようとしていた多くの人たち。

ジョン:ニューヨークで過ごした最初の夜、テレビをつけるとビリー・アイドルが「アメリカン・バンドスタンド」で「Mony Mony」を演奏していた。

サイモン:僕たちは、アメリカの観客から励まされてきたと思う。80%の女性、90%の女性、99%の女性という比率は、僕たちにとっては関係なかった。アメリカの人々が腕を振りながら踊ってくれたことに変わりはないから。

ニック:ブロンディと共演したときのことだ。ブロンディは親切なことに、僕らをサポートアクトとして迎えてくれた。僕らはブロンディが大好きだったし、今でも大好きだよ。アーティストとして非常に過小評価されていると思う。そのツアーに参加することで、物事が自分たちの思い通りに進み始めたのを実感した。それでホームに帰ってから数週間後、ラジオで「Hungry Like The Wolf」が好調に売れ始め、いきなり門戸が開かれたんだ。

ニック:イギリスのバーミンガムは、産業が盛んな灰色の街だ。僕たちはそこで生まれた。住んでる人々は素晴らしい。でも、僕たちは外に出たかったんだと思う。世界を見てみたかったし、ただそこに留まっているのは嫌だった。ニューヨークのアンディ・ウォーホルやヴェルヴェット・アンダーグラウンド、エンパイア・ステート・ビル、カリフォルニアの美しいビーチなどを夢見ていたから、少しでも早くアメリカに来たかったんだ。アメリカは僕らにとって重要な国だから、僕らが作る音楽も高揚感のあるものになった。僕らは自分たちだけでなく、人々の気持ちを高めたいと思っている。灰色の世界、困難、ストライキ、失業などについて書くのではない。そういった問題も痛感してきたけど、僕らはグラスが「半分空」ではなく、「半分満たされている」という態度を取ってきた。

ジョン:パンクは衝撃的で、あれがなかったら僕らはここにいなかっただろう。でも、パンクは非常に純潔なものでもあって、僕らはパンクの外に出なければならなかった。パンクは音楽に入るための力を与えてくれたけど、自分の道は自分で切り拓かなければいけない。ザ・クラッシュはそれを見事にやり遂げた。彼らは2~3枚のアルバムで自分たちの活動の幅を広げていった。それが僕たちに勢いを与えてくれたんだ。

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