ザ・ビートルズ解散は必然だったのか? 崩壊寸前のバンドを巡るストーリー

それぞれの結婚生活とすれ違い

1969年3月、ポールとリンダが結婚した。ジョージとパティ・ボイドは、警察署から直接パーティーへ駆けつけた。2人は、ジョンとヨーコを摘発したのと同じ麻薬捜査班に逮捕されていたのだ。ジョンと同じくジョージも、警官が麻薬を仕込んだと主張した。クローゼットのソックスの中からマリファナを発見したという警察に対して、ジョージは「俺は綺麗好きな人間で、散らかっているのが嫌いだ。レコードはレコードラックにしまい、紅茶は缶に入れ、マリファナはマリファナ用のボックスにしまっている」と反論した。

1969年にジョンとヨーコが結婚した時、彼はジョン・オノ・レノンと改名しようとした。1969年の思い切った一歩の始まりだった。しかしジョンとポールは、結婚生活の似合う普通のロックスターではない。彼らの新妻は独立した大人で、キャリアのあるアーティストで、離婚歴のある子持ちの女性たちだった。同世代で、彼らのように男女関係に対して先進的な考え方を持つロックスターは、ほとんどいない。しかし彼らは、ヒッピーの家長制度的な風潮をよそに、一夫一婦制の新たなモデルを模索していた。ポールは、ヨーコとリンダを鼻であしらうミック・ジャガーの言葉を気に入って引用している。「俺は自分の女房をバンドに入れるつもりはない」という言葉は、ジョンとポールが正に逃げ込もうとしていた精神状態を表していた。

ジョンとポールは、急ごしらえのシングル「The Ballad of John and Yoko」をレコーディングした。ジョンが調子に乗ってキリストを引き合いに出したのは、今回が初めてでも最後でもない。ジョンがギターを弾いて、ポールがドラムを叩き、ジョージとリンゴはレコーディングに参加しなかった。2019年にリリースされた『Abbey Road』』50周年記念ボックスに収録されたアウトテイクは、「“リンゴ”、テンポを少し上げてくれ」と言うジョンに対して、ポールが「了解、“ジョージ”」と答える絶妙の洒落から始まる。バックのギターを聴いていると、ビートルズがキャヴァーン時代にレパートリーとしていたセンチメンタルな曲「The Honeymoon Song」が思い浮かぶ。ジョンとポールのやり取りは、ヨーコもリンダもその他の数百万のリスナーも全く気付くことのない、2人だけのジョークだが、彼らがバンドを愛し、お互いを信頼し合っていたことを示す感動的なシーンだ。

ジョンとヨーコは、アムステルダムへ新婚旅行に出かけた。ところが1週間に渡る平和のための「ベッド・イン」のパフォーマンス中に突然、衝撃的な知らせが届く。音楽出版社のディック・ジェイムズが、彼らへの相談もなしに、バンドの楽曲の権利をルー・グレイドへ売り渡す交渉を始めたというのだ。ヒッピー的な理想を掲げたビートルズを餌食にする、音楽業界の最もたちの悪いサメの存在を象徴する醜い事件だった。

ビートルズはゲット・バックのショックから、『Abbey Road』で復活する。どの時代にも一番人気のあるビートルズのアルバムだとされるのは、彼らの温もりを最も感じられる作品だからだろう。ジョンとジョージは、まるでもう二度とバンドのために曲を作ることがないと知っていたかのように、ビートルズを意識した作品を書いた。ジョージは、採用される自分の作品が、いつもアルバム1枚あたり2曲止まりであると認識していた。しかし、ジョージの逆襲が始まる。ジョージ作の「Here Comes the Sun」と「Something」はアップビートのポップな祝福の歌で、ジョンとポールのソングライターとしての地位を脅かし、2人にさらなるステップアップを迫る作品となった。

ヨーコが交通事故による負傷から回復途中だったため、ジョンは病院用ベッドをスタジオへ持ち込み、彼女がコメントや批評をできるようにした。奇妙な状況だが、なぜ誰も文句を言わなかったのか? 4人全員が上手くやって行こうと努力していたのだ。「鼻息を荒くしても仕方がなかった」と、後にポールは話している。彼らはそれぞれ、ソロでの成功を思い描き始めていた。ジョンとヨーコがモントリオールのホテルのベッドで作った反戦歌「Give Peace a Chance」は、英国チャート2位のヒット作となった。リンゴは映画スターへの道を歩み始めた。彼らはもはや、ビートルズだけが自分を表現する唯一の機会だとは思わなくなった。だから彼らは、もうひと夏だけビートルズに打ち込もう、という十分な自信を持てた。「I Want You (She’s So Heavy)」が、4人が揃って演奏した最後の曲だった。


ラダ・クリシュナ・テンプルのメンバーとジョージ・ハリスン(1969年、ロンドンにて)。同年、彼らは一緒にレコーディングを始めた。(Photo by Trinity Mirror"/Mirrorpix/Alamy)

ジョージは、ラダ・クリシュナ・テンプルと美しい音楽を奏で、シングル「Hare Krishna Mantra」をプロデュースした。No.11になるかと問われた彼らは、「もっと上だ」と答えた(実際は英国で12位にランクインした)。ジョンとヨーコはロンドンで、自分たちのアヴァンギャルド映画の上映会を開催した。ジョンの『Self-Portrait』は、自分のペニスのアップを延々と映し続ける作品だった。ヨーコは「評論家も触れようとはしないでしょうね」と不満顔だった。

ジョンがメンバーに「離婚したいんだ」と言っても、誰もまともに取り合わなかった。ジョンだけではない。ゲット・バック・セッション中には、ジョージやポールも“離婚”を口にした。どうせジョンのいつもの思い付きだろうと思い、メンバーは彼に、公の場で離婚などと発言しないように静止した。ひとつの例は、あるアップルでのミーティング時、ご機嫌な様子で現れたジョンは「私はイエス・キリスト。私は再び戻ってきた」と告げたことがある(リンゴは「わかった。ミーティングは一時休止だ。ランチへ行こう」と応じた)。また、録音されていた別のミーティングの場では、今後のアルバムで曲作りの分担をどのようにするかが話し合われた。ジョージ曰く「結論は、今でもジョークにしか聞こえないが、僕に3曲、ポールに3曲、ジョンに3曲、リンゴに2曲、ということでまとまった」という。

ポールは空路、スコットランドに所有する農園へ飛んだ。生まれたばかりの娘の面倒を見ながら、ゆっくりしようと考えた。しかし彼の希望は実現はせず、1969年の秋は奇妙な展開が待っていた。「ポールは死んだ」という噂が広まったのだ。デトロイトのラジオ局が『ホワイト・アルバム』をバックに、ファンらによる議論を流した。ファンはビートルズのアルバムを分析して、1966年にポールが死亡したという説を裏付ける証拠を探し始めた。ジョンはデトロイトのラジオ局へ電話を入れ、「僕が耳にした中で最もくだらない噂話だ。僕のキリスト発言を誇張して広めた奴にそっくりだ」とクレームを入れた。ヨーコとのシングル「Cold Turkey」とアルバム『Wedding Album』のプロモーションに力を入れたかったジョンは、ポールの話など興味がないようだった。死亡した本人はユーモアのセンスがあったようで、アップルの事務所へ電話を入れて、「これまでで一番宣伝になりそうなネタだろう。僕は、生き続けるという以外は何もせずじっとしているよ」と伝えた。しかしライフ誌の特集記事でポール本人が、「ビートルズのあるメンバーの騒ぎはおしまい」と述べ、以降は誰も噂を口にしなくなった。

『Revolver』後のようにメンバーがある程度の休暇を取れていたら、全ては変わっていたかもしれない。彼らは『Abbey Road』という最大のヒットアルバムを出し、多くのソロプロジェクトをこなした。彼らは妻や子どもを持った。彼らはしばらく仕事から離れ、どこかへ消えてもよかった。しかしバンドが新たなビジネスマネージャーを迎えると、ニューアルバムの制作を要求された。ゲット・バック・プロジェクトはアルバム『Let It Be』として実を結んだが、ビートルズは回復する暇すらなかった。

Translated by Smokva Tokyo

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