ビートルズ伝説の幕開け、『プリーズ・プリーズ・ミー』完成までの物語

ザ・ビートルズは、デビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』に収録された楽曲の大半を、一日のスタジオ・セッションでレコーディングした。(Photo by Hulton-Deutsch Collection/Corbis/Getty Images)

4月26日は、ザ・ビートルズ初のイギリス盤公式オリジナル・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』ステレオ盤の発売日(モノラル盤は1963年3月22日発売)。「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」からカタルシス的な「ツイスト・アンド・シャウト」まで、デビューアルバム用の楽曲を一気にレコーディングした一日の物語を振り返る。

1962年11月26日、EMIのスタジオ2のよどんだ空気の中に「プリーズ・プリーズ・ミー」の余韻が残る中、上のコントロールルームからトークバックを通じてジョージ・マーティンの天の声が響く。「諸君!」と彼は、マッシュルームカットの若者たちに語りかけた。「君たちにとって初めてのナンバー1が出来上がったようだ」

マーティンはヒット曲に敏感なベテラン・プロデューサーだったが、ザ・ビートルズの2ndシングルを各チャートのトップへ押し上げるまでには、それから数カ月かかった。1963年1月11日にリリースされた「プリーズ・プリーズ・ミー」は、翌週の母なる自然のいたずらに思いがけない後押しを受けた。1963年の冬は、イギリスの歴史上最も厳しく記録的な寒さのため、人々は土曜の夜も家に籠もってテレビの前で過ごしていた。ちょうどその頃、全国ネットに出始めていたビートルズが、イギリスの民放ITVのポップ音楽番組「Thank Your Lucky Stars」に登場した。バンドが最新シングルを口パクで披露すると、激しいビートに乗った覚えやすいメロディと滝のように流れるハーモニーに加え、60年代初頭のイギリスには珍しいロングヘアに視聴者は釘付けになった。このシングル曲は一夜のうちに広まった。



スマッシュヒットを手にしたマーティンは、当然ながら進むべき次のステップを心得ていた。速やかに店頭にフル・アルバムを並べることだ。彼は当初、バンドの本拠地であるリヴァプールでのライヴ・レコーディングを考えていた。「キャバーン・クラブへ出向いて、何をどのようにできるかをチェックした。僕は彼らのレパートリーを把握していたし、どう演奏するかも知っていた」とマーティンは、バンドの1995年のドキュメンタリー『アンソロジー』の中で振り返っている。安く早く製作するには、フォーマット自体に魅力のある必要があった。その2年前に彼は、ロンドンのフォーチュン・シアターのステージ下に置いたテープレコーダーで、大人気コメディショー「Beyond the Fringe」(若きダドリー・ムーアとピーター・クックも参加)をレコーディングし、大成功を収めていた。しかしコンクリートの壁に囲まれた地下にあるキャバーン・クラブは、それ自体でナチュラルなエコーがかかってしまうため、ライヴ・レコーディングには適さなかった。そこでマーティンは、レコーディング・スタジオ内の電気系統をライヴ・レコーディング用に改造することを考えた。「僕は彼らに“レパートリーを全部レコーディングしよう。1日でササっと仕上げてしまうよ”と言ったんだ」

●1963年のビートルズ(写真を見る)

1963年当時、フル・アルバムをそのように短期間でレコーディングしようというのは、そう無茶な要求でもなかった。楽曲は2トラックのBTRマシンを使ってライヴ・レコーディングし、オーバーダビングや細かい編集の余地を残した。シングル「プリーズ・プリーズ・ミー」とB面の「アスク・ミー・ホワイ」と、1stシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」とそのB面「P.S.アイ・ラヴ・ユー」は、事前にレコーディングを完了していた。当時のイギリスでは、アルバムの収録曲数は14曲とするのが通例だったため、レコーディングすべきはあと10曲だった。「彼らにとっては、ステージでのレパートリーを演奏するだけの単純作業だった。ある意味で生放送だ」とマーティンは、BBCラジオでのレギュラー・セッションと似たようなものだと表現した。1963年2月11日の午前10時にバンドをEMIのスタジオ入りさせるため、マネージャーだったブライアン・エプスタインは、前日にバンドをツアーから解放した。

とにかくそういう計画だった。しかし、ジョン・レノンがひどい風邪の治療にあたっていたこともあり、バンドの到着が遅れた。「レノンの声はとても酷かった」とセッション・エンジニアのノーマン・スミスは、『ザ・ビートルズ・レコーディング・セッションズ』(マーク・ルーイスン著)の中で振り返っている。部屋の片隅に置かれたベビーグランドピアノの上には、Zubes(のど飴)の缶が散らばっていた。その周りではバンドのメンバーたちがスツールに腰掛け、マーティンと一緒にその日のセットリストを確認していた。「僕らは常に追い詰められていた」とジョージ・ハリスンは、ドキュメンタリー『アンソロジー』の中で証言している。「僕らはレコーディング前に全ての曲をランスルーした。少し演奏したところでジョージ・マーティンが“よし、他に何がある?”と言うんだ」 ポール・マッカートニーは、マレーネ・ディートリッヒの古いバラード曲「Falling in Love Again」をレコーディングしたがった。しかしマーティンによって「陳腐だ」と却下された。ザ・コースターズで有名になり、1960年以降ビートルズの長年のお気に入りとなった「ベサメ・ムーチョ」も、同様に採用されなかった。その代わりマーティンは「蜜の味」を推した。彼には、同曲がセットリストに新たなテイストを加え、より良いサウンドになるという確信があった。

Translated by Smokva Tokyo

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