ザ・バンドを巡る「ドラッグと交通事故と死」、実人生とかけ離れた虚構の音楽物語

ザ・バンド 左からリヴォン・ヘルム、ガース・ハドソン、ロビー・ロバートソン、リック・ダンコ、リチャード・マニュエル (C)Robbie Documentary Productions Inc. 2019


40年後に知った消息

初めて、少し謎が解けたのは、『ロビー・ロバートソン自伝』の原書である『Testimony』(2016年)の中に、ジョー・ザガリーノについての記述を見つけた時だった。ロサンゼルスのサミー・デイヴィス・ジュニア邸で録音された2ndは、LAセッションではエンジニアが不在で、ロビーとプロデューサーのジョン・サイモンが機材を操った。ミックスはニューヨークのヒット・ファクトリーで、トニー・メイとともに行ったが、ロビーはその結果に満足できなかった。そこでヒット・ファクトリーの若いエンジニア、ジョー・ザガリーノに白羽の矢を立て、彼とともにミックスをやりなおした。『Testimony』にはそういう経緯が書いてあった。

ザガリーノのミックスを聴いたマスタリング・エンジニアのボブ・ラディックは、当初、このマスタリングは難しいとロビーに告げたそうだ。だが、数日後、電話で自分が間違っていた、素晴らしいミックスだったと絶賛した。そんな話も書いてある。ラディックは近年のインタヴューで、過去の最も誇らしい仕事の二番目にザ・バンドの2ndを挙げている。このことからしても、ザガリーノが最高のロック・エンジニアだったことは、間違いない。


だが、彼はどこへ行ってしまったのだ? 他に何か手掛かりはないだろうか?と思って探すうちに、2015年にペーパーバック化されたスティーヴ・ジャエ・ジョンソンの『Walk, Don’t Run 〜 A Rockin’ and Rollin’ Memoir』という本に出会った。同書はハリウッドで俳優や脚本家として活動してきたジョンソンの回想記で、舞台は60年代のLA。ハイスクールで出会った三人組の物語になっている。ジョンソン以外の二人はエディ・オルモスとジョーイ・ザガリーノ。三人はバンドを結成して、レコード契約をめざしたが、良い線まで行ったところで、ギタリストのジョーイが家族とともにニュージャージーに移住してしまう。

ヴォーカルのエディとドラムスのスティーヴはLAで活動を続け、パシフィック・オーシャンというバンドで人気を掴んでいく。一方、ジョーイはニュージャージーでチップス&カンパニーというバンドに加入。オルモスとジョンソンはジョーイをLAに呼び戻そうとするが、チップス&カンパニーで活動し、ヒット・ファクトリーでエンジニア修行も始めたジョーイは帰ってこなかった。




ここまで読んで、ロビー・ロバートソンの自伝と話が繫がった。ジョンソンのバンド仲間だったジョーイが、ボブ・ラディックを唸らせたヒット・ファクトリーの若きエンジニア、ジョー・ザガリーノだ。ジョンソンの本に沿えば、1969年にはザガリーノはまだ22歳か23歳。アシスタント・エンジニアを経て、初めてミックスを任された仕事が、ザ・バンドの2ndだったのではないかと思われる。

その後、ザガリーノはプロデューサーのジミー・ミラーに才覚を買われ、彼の片腕のような存在になって、LAに帰ってくる。ポルシェを乗り回すジョーイを見て、スティーヴ達はあっけに取られるが、三人の友情は続き、スティーヴはジョーイがエンジニアを務めるローリング・ストーンズのレコーディング・セッションを覗いたりする。『Walk, Don’t Run』はそんなストーリーなのだが、ラスト近くに衝撃的な事実が書かれていた。ジョー・ザガリーノは1973年の始めに26歳の若さで死んでいたのだ。

1972年のクリスマスの直前にロンドンからLAに帰ってきたザガリーノはジミー・ミラー宅で昏睡し、そのまま意識が戻らず、年明けの1月4日に死去した。ドラッグの過剰摂取が原因だった。だが、このことは箝口令が敷かれたようだ。当時、ミラーはローリング・ストーンズの『山羊の頭のスープ』のプロデュースを手掛けていた。ミラー宅での変死はスキャンダルになる。ザガリーノはグラミー賞にもノミネートされるエンジニアになっていたが、その死は業界誌にも乗らなかった。

僕がジョー・ザガリーノというエンジニアが最高だ!と確信して、そのクレジットを漁り出したのは1974年くらいだろう。だが、その頃には彼はもうこの世にいなかったのだ。僕がそれを知ったのは、何と40年以上が過ぎてからだった。

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