沢田研二を描いた究極のノンフィクション、担当編集者と辿る完成までの道のり



田家:1971年7月発売でした。その後第四章は「たった一人のライバル」。その前に出ていたPYGを受けての章。ジュリーとショーケンをここまで書いた本があったか。

内藤:いやー、ここは私も島崎さんも一番好きなところで、読み返す度に泣いちゃうんですね。ノンフィクションで泣くってどういうこと?って思うんですけど、何回ゲラやっていても最後ラスト一行で。

田家:そうそう、ジュリーは涙を飛ばして叫んだ「俺はあいつが大好きなんだ」。最後これで終わるというのがね。

内藤:そうなんですよ。ここは筆が光っているなという感じですね。

田家:これはどういうことを書きたいという話で始められたんですか?

内藤:もともと沢田さんと言ったらショーケンさん。この2人の対比じゃないですけど、2人スターがいる時代は後にも先にもあの時だけだったんじゃないか、と島崎さんは常々おっしゃっていて。2つの太陽という言葉で表現しているんですけど、ジュリーがいたからショーケンは歌うことをやめたまで言わないんですけど、そういう書き方を島崎さんはされていて。ジュリーがいるからショーケンがいるし、ショーケンがいるからジュリーがいるみたいな関係の2人って、BLじゃないですけど、そういう風に見る人たちももちろんいるし、現実世界にいる2人なのに小説の中のことみたいな感じで読める章だなと私は思っていて、そこはいいですね。

田家:挫折を知る太陽だった。これもいろいろな方が登場するわけで、演出家の蜷川幸雄さんとか、蜷川さんの奥さんまで登場していた。「anan」で2人を撮ったカメラマン武藤義さんとか、ジュリーのドキュメンタリーの中にショーケンを出した映像作家・佐藤輝さん。2人がどう違ったのかということをアラン・ドロンとジャン・ポール・ベルモンドと例えながら話をされたりしている。ジュリーはショーケンコンプレックスがあったみたいな話もあります。第四章の中に出てくる曲をもう1曲お聴きいただこうと思うのですが、内藤さんが流したいと言われた曲です。1973年4月発売「危険なふたり」。



田家:レコード大賞を取れなかったエピソードがあるでしょう。なんで沢田じゃないんだと裕也さんの軍団が関係者に詰め寄っていた中にショーケンがいた。嘘だろうと思いましたもん。

内藤:本当ですか。その後取った時にもちゃんと駆けつけて、マネージャーの方に今回は取れるんだろうなって言いながら控室で待っていたエピソードがあって。

田家:2人のエピソードがこれでもかと言わんばかりに登場する。そういう章の最後にショーケンが死んだ時に沢田さんが言った、「俺はあいつが大好きなんだ」と叫んだという話で終わるわけですね。

内藤:何回読んでも泣いちゃういい章です。

田家:話を聞いて泣いていただけるとうれしいなと思っています。



田家:第五章、歌謡曲の時代に行くわけですが、最初の小見出し「『君をのせて』、不発」。

内藤:この章もすごく好きなんですけど、この曲が売れなくてこの路線じゃないってナベプロがなったからこそ、J-POP路線というかポップ路線が始まったという話に結びついていって。不発にもそれなりの意味があったんだみたいな話を島崎さんは書いてらっしゃるんですけど、その回収の仕方がミステリーみたいでおもしろいなと思ったんですよね。

田家:この曲がどうやって生まれたのかとか、当時関係者は何を思ったのか、そこまで取材をされていて。宮川泰さんの奥様が、宮川さんが曲を依頼された時のことを覚えてらした。奥様にまで会いに行っているんだと思いました。

内藤:私もこれは同行させてもらっていないので、島崎さんの人脈の中で出てきた話だと思うんですけど、野外フェスだったんですよね。これが初めて披露されたのが。それを見たナベプロの方の印象とかもここには入っていて。

田家:中島二千六さん。ナベ出版の大御所の人ですけどね。

内藤:その関係者の方々が当時何を思ってそれを聞いたのかを今の時代に書けるっていうのが、びっちり決まったなという章ですね。

田家:沢田研二さんがこの曲をどう思っていたのかもちゃんと書いてある。

内藤:あまり得意ではなかった、難しい曲なんですよね。バラードなので野外フェスで歌ったというのもあったと思うんですけど。

田家:その後にスタッフが変わって加瀬邦彦さんが登場して、作詞安井かずみさんになったりしていく過程も書いてあるわけで。という話まで載っていましたね。

内藤:「危険なふたり」が最初B面だった話も載っているんですけど、それをA面に変えてくれって加瀬さんが直談判して、A面に変えさせたからには売れないといけないというので。ただ安井さんが書いた「赤い風船」がずっと上位にあって、それを覆すために一緒に応募ハガキを書いたという。リクエストハガキですね。あと、私がここでいいなと思っているのが、プロデューサーの木﨑賢治さんにお話を伺っているんですけども。

田家:この番組に来てくれてますよ(笑)。

内藤:本当ですか! 木﨑さんがおっしゃっていた「スターというのは存在に重みが出てくると、曲も重くなっていく」という。ただ、この曲が売れたことでやっぱりそうではなくて、ポップなもの、軽いものを書いていかないといけないと思った」とおっしゃっていて、なるほどなあと今の時代に照らしても思える仕事論。

田家:あの人が書いた本は仕事論の本でしたもんね。1つの曲にあらゆる角度から光を当てている。時代の転機となった曲、1980年1月発売「TOKIO」。

Rolling Stone Japan 編集部

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