ROAD&SKY・岩熊信彦が語る、浜田省吾の伝説のライブ渚園が生まれた理由



田家:この「路地裏の少年」のロングバージョンがFMラジオで流れるのは初めてなんではないかと。

岩熊:全編流れるっていうのはめったにないですね。

田家:しかも今回の映画でこれを映像で見ることができるわけですから。

岩熊:そうですね。泣けてきますね。本当に。アルバム『J.BOY』で初めてフルバージョンを聴いたんですけど、僕は正直言って長いと思いました。本当に渚園以来、フルバージョンは歌ってませんから貴重なバージョンですよね。

田家:この映像を改めてご覧になってどんなふうに思われました。

岩熊:ステージ上を覆っている「A PLACE IN THE SUN」と書かれてる白い幕が無事にクレーンで除去されて、本人が前に出てきたときの感動は今でも忘れないですね。僕の仕事はあそこで終わりなんですよ。あとはもう本人、メンバーに任せるしかないんですね。あそこまでが本当に緊張したし、逆に言うと、その分感動したっていう。

田家:88年当時は、35年経ってこんなふうに映画になるとは夢にも思ってないっていう。

岩熊:いやもう予想だにしないですよね。これはもう掛け値なしに今の技術の勝利だと思いますね。

田家:そんなイベントの、そもそもの話からお聞きしていこうと思うんですが、この渚園という場所を決めたのは岩熊さんだったわけでしょ。

岩熊:そうです。私です。元々83年に初めて通常のコンサートとは違うイベント「A PLACE IN THE SUN」を福岡海の中道海浜公園でやったんですね。翌年84年に横浜スタジアムでやったんですけど、本来は84年の横浜スタジアムは違う場所で決めてたんですよ。

田家:茅ヶ崎の方。

岩熊:そうなんです。決めてたんですけど、市長選挙がありまして、許可を出した市長さんが落選しまして。新しくなった市長さんがNGを出して、結局できない。じゃどうしようっていうんで横浜スタジアムに持っていったわけですよ。だからこれは本人もそうですけど、僕もやっぱりどっかに胸の奥に無念さが残ってるんですね。横浜スタジアムの「A PLACE IN THE SUN」に関しては。必ずまたスタジアムとか競技場じゃないところでやろうねっていうのは浜田本人とも話をしてずっと探してたんですね。ある日朝起きて、朝日新聞を見たら、浜名湖湖畔渚園フリーマーケット開催みたいな写真と記事で出てたんですよ。こことっても良さそうじゃないと思って、すぐその場で名古屋地区のプロモーターさんに電話をして調べてもらったら数日後にこういうところで、コンサートできそうですよって言うから、じゃあ僕見に行くよって行ったのが初めてなんですね。

田家:そのときに5万5000人という数とか、映画の中でも本当に印象深い高いイントレ。ああいうものは想像してたんですか。

岩熊:まったくイメージしてません。「A PLACE IN THE SUN」をやりたいっていう気持ちの方が先走ってたので決めて1年しか経ってないんです。準備していく中で舞台デザインを考えていったんですけど、あくまでも机上で僕たちはデザイン上書いていくわけですよ。こういうステージにしたい、テーマはこれだみたいな形でやっていくんですけど、実際に作ってみると、それはとてつもないステージでしたね。

田家:イントレの数6,000本でしたっけ?

岩熊:もう名古屋地区のイントレがなくなったって言いますから(笑)。

田家:いかに素晴らしい環境で行われたかっていうことが記録されてる映画でもありまして、それを本当に物語っている曲をお聞きいただこうと思います。76年に発売になった2枚目のシングル「愛のかけひき」。アルバムは77年のアルバム『LOVE TRAIN』に入っていました。

Rolling Stone Japan 編集部

Tag:

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE