三浦光紀が語る、ベルウッド・レコード創立の裏側とニューミュージックの真意

あしたはきっと / いとうたかお

三浦:これは、いとうたかおさんが中津川で歌ってたときに加川良さんが「いい歌だね」って言ってきたみたいで、加川良さんが渡さんにこの歌を教えて渡さんも「これがいいね」ってなってレコーディングに入ったんですよね。これもバックは細野さん、林立夫さん、駒沢さんとかで。今まで聴いた曲のメンバーは、ほとんどこのメンバーですからね。全部細野さん、林さん、茂さんとか。はちみつぱいが入ってくるまでは全部バックははっぴいえんどです。それで、はちみつぱいが入ってきてから、はっぴいえんどとはちみつぱいがバックをやるようになったんですよね。

田家:はっぴいえんどのメンバーはバッグをやりたい思考があったんですか? 三浦さんがやらないかって言ったんですか?

三浦:彼らはまだ無名だから食べていけないじゃないですか。でもめちゃくちゃみんな上手いわけですから、僕としては彼らにお金を渡したいっていうのと。あと、彼ら以外にできる人がいないぐらいにロックのミュージシャンとなると、彼らしかいなかったんですよ。だから彼らを必然的に使いました。

田家:いとうたかおさんはどういうふうに記憶として残ってますか?

三浦:いいアーティストだなと思って。

田家:三浦さんはベルウッドの後にフォノグラムを作られていて、いとうたかおさんはフォノグラムでもお出しになってるんですけど。そういう意味でやっぱり関わっていきたいアーティストだったと。ベルウッドのアルバムの話が出ましたがシングルの第1号というのがこの曲ですね。1972年4月発売、あがた森魚とはちみつぱいで「赤色エレジー」。



田家:さっきシングル盤はちょっと売れるものを意識されたって話がありましたけど、やっぱりそういう選択だと。

三浦:これは1971年の中津川のフォークジャンボリーであがたさんが歌ってて。その時はメインステージと別にフォークとロックのサブステージが2つあって、アマチュアの人たちが出てたんですね。僕はメインステージをレコーディングしていたんで全然知らないんです。あがたさんの今度出る自叙伝にも書いてあることなんですけど、中津川「フォークジャンボリー」で自分が歌ってたらそこにニコニコして寄ってきて「レコードやろう」って言われたって書いてあるんですよ。あがたさんとの出会いは「中津川フォークジャンボリー」が途中で暴動みたいになってレコーディングできなくなっちゃって。前年は、はっぴいえんどと渡さんだったんですけど、その年はめぼしいアーティストもいない。レコーディングも途中で中止になったし、もうこれは駄目だなと思って、一応サブステージの音を聞いてみようかと思ったらこの曲が流れてきたんですよ。これは売れるなと思って。まず、なんてボーカルなんだ! ってびっくりしちゃいました。スタッフに「この人を探してくれ」と言ったら、蒲田の野村証券で黒板書きのアルバイトをしてたあがた森魚さんを見つけて。そこに鈴木慶一さんのお母さんも働いてて、あがたさんが休憩時間によくギターを弾いていたらしいんですね。お母さんがそれを見て、「家にも引きこもりの子がいるからうちの子と会ってくれ」って言って、今度は慶一さんと出会うことになるんですよ。その出会いも慶一さんがフランクザッパのある曲を大音量で流すから、そこが僕の家だって言って。それで訪ねていったらしいんですね。その出会いがあがた森魚とはちみつぱいになる。僕はあがたさんに電話して「来年、新しいレーベルを作って、それの第一弾にするからレコーディングしよう」って言ってやったんです。レコーディングの準備していた時にあがたさんが僕の家に居候してて、友部さんと西岡恭蔵さんを連れてきたんですよ。

田家:この話はまた曲の後にしましょうかね。あがたさんの曲をもう1曲お聴きいただきます。1972年9月発売のアルバム『乙女の儚夢』から「大道芸人」。

Rolling Stone Japan 編集部

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