三浦光紀が語る、ベルウッド・レコード創立の裏側とニューミュージックの真意



三浦:渡さんは現代史の方の詩を引用しながら歌っているんですけど、これは渡さんの詩なんですよね。小室さんも現代史を歌っているんですけど、2人とも自分で詞を書いてもすごいんですよ。これはもうプロテストソングだと思って選んだんですけど、そういう意味では自分で書いた詩の中で高田さんの代表曲かなと。

田家:ベルウッドは1972年4月に正式に発足しているわけですが、最初に出たアルバムが3枚ありまして六文銭の『キングサーモンのいる島』、高田渡さん『系図』、山平一彦さん『放送禁止歌』。これはもうベルウッドとして始めるときにこれでいこうみたい決めてらっしゃったんですか。

三浦:いや、シングル盤は売れるものを出したいなと思って意識したんですけど、アルバムはたまたまその時に作っていたやつをまず第1号として出しました。あまり意味はないんですけどね。

田家:始まりの話もこの後またお聞きしようと思うのですが、割とすんなり始められたんですか。

三浦:全く問題なく。よく周りの理解のない中でどうのこうのって言われがちなんだけど、そうじゃなくてみんな理解してくれて、反対はなかったです。当時、日本のレコード業界って欧米に比べるとやっぱ10年ぐらい遅れていて、僕が入ったときは2チャンネルですよね。でも当時ビートルズは16チャンネルでやったわけで、全然相手にされてないわけですよ。だから、やっぱり16チャンネルを使って世界と同じぐらいのレベルの音を作りたいじゃないですか。それはクリエイターってみんなそうですよね。だけどレコード会社にいたらできないんですよ。ミュージシャンだってそれは面白くないわけだから。たまたまそういうオリジネーターが出始めの頃ですから、細野さんにしても慶一さんにしても大瀧さんも宅録ですよね。自宅で録音する、それのマニュアルで。だから彼らは録音に関してはめちゃくちゃレベルが高いんです。例えばはっぴいえんどって最初は4チャンネル2台、2枚目が8チャンネル2台、3枚目が16チャンネルと機材の進化に沿ってやっていったわけなんで。先輩たちは2チャンネルで黙ってやってるんだけど、僕はもうそれじゃできないっていうことで、技術的なこと、それから販売方法、宣伝の仕方とか全部変えようと思って。新しいものを作りたいって言ったらやらせてくれた感じです。

田家:次は1972年7月にシングルで発売になりました、いとうたかおさんで「あしたはきっと」。

Rolling Stone Japan 編集部

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