岡林信康とともにフォークの神様と呼ばれた当時を振り返る

岡林信康


田家:次は、インタビューに続いて「自由への長い旅」をお聴きください。

(インタビュー)

田家:これも一つの出会いの不思議ということでいうと、はっぴいえんどとの出会いがありますよね。

岡林:そうだね、俺はずっと弾き語りをやってて、ボブ・ディランなんかのことを知って、彼の「ライク・ア・ローリング・ストーン」に痺れまくって。俺も弾き語りというのにある種の行き詰まりも考えていたので、ロックをやりたいなあと思って。当時は関西に住んでいたけど、関西にいいバンドがなかった。皆グループサウンズの延長みたいな。それで、東京にはとてもいいバンドがあるということを知って、はっぴいえんどを知って、僕も東京に移り住んで彼らとやり出したわけです。

田家:はっぴいえんどと出会うのと岡林さんが東京に移るのは、ほとんど一緒の時期なんですね。はっぴいえんどと会わなかったらどうなっていただろう、と考えたりもしますか?

岡林:はっぴいえんどというよりも、ロックをやらなかったらどうなってただろうというのはあるね。はっぴいえんどとやり始めた頃は、はっきり言って本当にウケなかったのよ。東京ではウケ出してたんだけど、東京以外は散々なもので。それとね、岡林の弾き語りならコンサート主催したいけど、ロックはいらないっていうことを言われたりもして、コンサートやってくれる人がいなくなったのよ。だから、はっぴいえんどとコンサートをやった数は本当に少ない。弾き語りの時は年に100本近くやってたんだけど、はっぴいえんどとは15本とか20本くらいで終わったんちゃう? それで毎晩新宿のゴールデン街で飲んだくれるわけだが、こんなことしてたら死んじゃうかなと思って。それが田舎に引っ込むという原因の一つだね。はっぴいえんどとのライブがウケなかった。後になってから、彼らは売れていったのよ。

田家:確かに。当時のはっぴいえんどは知る人もいないくらいでしたもんね。

岡林:今考えたら、1960年代末にはっぴいえんどはああいうサウンドでアルバム作ってたってすごいな。10年ぐらい時代の先行ってたんちゃう?

田家:岡林さんははっぴいえんどの演奏で歌っていて、自分の歌が違って聞こえたり、気分がそれまでと変わったりしました?

岡林:歌い方で言えば、メロディを丹念に追うという歌い方ではなくて、シャウトしてしまう。これがロックか! って思ったね。でも残念なのが、PAは今ほど良くないしアンプもスピーカーも良くないから、茂(鈴木茂)のギターがやたらうるさいなとか、大滝のリズムギター下手くそだなとか思って(笑)。ちゃんとした音響システムでやれば良かったと思うんだけど、もう怒鳴るしかないというか。今のような音響システムで彼らとやってみたかったなあ。



(スタジオ)

田家:1970年にURCから発売された2枚目のアルバム『見るまえに跳べ』から「自由への長い旅」。バックははっぴいえんど、ピアノははちみつぱいの渡辺勝さんですね。後世語られる歴史と現実がどうだったかの間には、多々違いがあったりします。はっぴいえんどは確かに歴史を変えたのですが、当時はほとんどウケなかったという事実は、やはり当事者にしか語れないことでもありますね。岡林さんも弾き語りの時は年に100本近くライブをやっていたけど、はっぴいえんどとやったら途端に数が減った。こういう現実もありました。これは、ボブ・ディランがロックバンド編成でエレキギターを持ってフォークのコンサートに出た時に、当時のフォークファンから帰れコールがあったのと同じことでしょうね。

Rolling Stone Japan 編集部

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