岡林信康とともにフォークの神様と呼ばれた当時を振り返る

田家:続いては岡林さんに「フォークの神様」と呼ばれていた時のことをどう思っているのか、伺っております。曲は、アルバム『見るまえに跳べ』から「私たちの望むものは」。

(インタビュー)

田家:岡林さんと言えば、いまだにキャッチフレーズ「フォークの神様」がついていますが、そう呼ばれ始めたときのことはどう思われますか?

岡林:誰が言い出したんだっていうね(笑)。あのね、フォークの神様だからロックをやっちゃいけないんですよ。まして、演歌なんてとんでもないんですよ。そこが窮屈というか、なんか狭い檻に閉じ込められた嫌な重苦しいものは感じたな。

田家:半分は弾き語りの神様みたいな意味だったんでしょうね。

岡林:歌の神様って言ってくれるんならええよ。フォークだとそこに限定されるから。

田家:でも、松本隆さんがはっぴいえんどで岡林さんのバックバンドをやっている時に、「私たちの望むものは」を歌っている時の岡林さんを神だと思ったことがあるよ、と言っていましたよ。

岡林:(笑) 。というより、トランス状態に入っている人を見たんちゃうんかな。そういう瞬間は何回かあった。トランス状態に入ってしまって。



田家:「私たちの望むものは」は、どういう状況で書いたか覚えてますか?

岡林:あれはフランスの五月革命かな? あの時の手記のようなものが出版されたんよな。

田家:壁の落書きが本になりましたね。

岡林:その時に「私たちが望むものは」というフレーズがあったのよ。そこに触発されて、俺も自分たちが望むものは? ということで書いてね。ある人から、なんで私たちなんだ、私じゃねえのかって言われてね。歌の中に私たちが望むものは、決して私たちではなく私であり続けることだって書いてるのよ。それを読まんと言うから、頭にくるわけね。

(スタジオ)

田家:『見るまえに跳べ』から「私たちの望むものは」。当時の僕らには、あたかも聖書の一節のように聴こえたのは確かです。学生運動のアジテーションなどでも、“我々は~”と皆言っていました。岡林さんが今も昔も他のアーティストに比べて唯一無比なものは生き方でしょうね。色々な音楽をやってきましたが、そこに生き方という太い幹があって、脈々と流れているものがある。時代とどう向き合ったか? どう向き合わざるを得なかったか? 政治の時代というのは1970年代のはじめに潮が引くように消えてしまいました。学生運動は、学生側の停滞、敗北で終わったわけで。岡林さんはそこに巻き込まれたと言っていいでしょう。若者たちが自分たちの思うようにならない鬱憤を岡林さんにぶつけた、という面もありました。その中で、彼は東京を引き払ってしまうんです。それが、1971年の3枚目のアルバム『俺ら いちぬけた』です。

Rolling Stone Japan 編集部

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