フィル・スペクターが獄中で死去 革新的プロデューサーの波乱万丈な人生を振り返る

さらなる成功と見え始めた闇

スペクターは西海岸へ渡り、LAのゴールドスタースタジオでレコーディングするようになった。ギターにグレン・キャンベルとバーニー・ケッセル、ピアノにレオン・ラッセル、ドラムにハル・ブレインという最高峰のスタジオミュージシャンを集めたレッキング・クルーの手をかりて、時にはジャック・ニッチェやソニー・ボノのアレンジや助言を取り入れながら、自らの「ウォール・オブ・サウンド」をさらに推し進めた。スペクターは1963年に4曲をトップ10入りさせる。クリスタルズの「Da Doo Ron Ron」、「Then He Kissed Me」、ボブ・B・ソックス・アンド・ザ・ブルー・ジーンズの「Zip-a-Dee-Doo-Dah」、そして最大のヒット、ザ・ロネッツの「Be My Baby」。この曲で、世慣れたハスキーヴォイスの若きシンガー、ロニーことヴェロニカ・ベネットの存在が世に知れた。

スペクターはシングル製作に注力していたが、1963年の暮れには唯一のアルバム『クリスマス・ギフト・フォー・ユー・フロム・フィルズ・レコード』をリリースした。レーベル所属のアーティストが勢ぞろいした名作アルバムで、ザ・ロネッツが官能的にカバーした「サンタが街にやってくる」など、往年のクリスマスソングが大半を占めていた。だがもっとも目を引いたのは、スペクターとジェフ・バリー、エリー・グリーンウィッチが書き下ろした新曲、ダーレン・ラヴの「クリスマス」だ。当然のごとく、この曲は今でもクリスマスの定番曲として歌い継がれている。

スペクターはロックンロール最初のスーパープロデューサーとなった――1964年のトム・ウルフによる有名な紹介文では、「初の大物ティーンエイジャー」と評された。1964年にはさらに数多くのザ・ロネッツのヒット曲をプロデュースし、ブリティッシュ・インヴェイジョンに対抗した。翌年には男性2人組ライチャス・ブラザーズで再び脚光を浴びた。彼らの「You’ve Lost That Loving’ Feeling」は200万枚のセールスを記録し、フィルズ・レコード3度目のシングルNo.1となった。



だが次第にスペクター作品は手間のかかる野心作となっていった――中には詰め込み過ぎだと言う者もいた。1966年、本人が最高傑作と自負するバロック風のポップ超大作、アイク&ティナ・ターナーの「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」は全米シングルチャート88位どまりだった(だがイギリスではシングルチャート3位までヒットした)。憤慨したスペクターはハリウッドの豪邸に引きこもり、カウンターカルチャーの名作映画『イージー・ライダー』のドラッグ・ディーラー役でカメオ出演したきり、2年間ほとんど姿を現さなかった。1968年にはロニー・ベネットと結婚。ロニーは1990年の回顧録『Be My Baby: How I Survived Mascara, Miniskirts, and Madness, or My Life as a Fabulous Ronette』の中で、夫のスペクターが虐待的で、常軌を逸したとまではいかなくとも、突飛な行動に走る傾向にあったと記している。

「(フィルは)私から歌を取り上げた。もうレコーディングさせてもらえないんじゃないかと気が気じゃなくて、胸が張り裂けそうだったわ」 2016年、ロニー・スペクターはローリングストーン誌にこう語った。「私の生きがいだったパフォーマンスがもう2度とできないんじゃないかって思った。すごくショックだったわ、私のために曲を書いてプロデュースした人間が目の前にいるのに……それが突然、歌わせてもらえなくなった……彼が刑務所に入ってようやく、因果応報という意味を実感したわ。だって私は豪邸の囚われの身で、外にも出してもらえなかったのよ。7年間どこにも行かせてもらえなかった」

Translated by Akiko Kato

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