フィル・スペクターが獄中で死去 革新的プロデューサーの波乱万丈な人生を振り返る

フィル・スペクター(Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images)


ビートルズとの関係、レコーディング中に銃を携行

スペクターが音楽界に復帰したのは1969年のことだった。新生ロネッツのシングル「You Came, You Saw, You Conquered」は不作に終わったが、同じ年にリリースしたソニー・チャールズ&チェックメイツの「Black Pearl」はシングル13位にランクインした。再び軌道に乗り始めたスペクターはビートルズと手を組む。ジョン・レノンのソロ・ヒット作「インスタント・カーマ」をプロデュースすると、バンドが途中で投げ出した『ゲット・バック』のレコーディング音源からアルバムを製作する仕事を任された。そうして完成したのが、ビートルズ最後のスタジオアルバム『レット・イット・ビー』だ。



ポール・マッカートニーをはじめスペクターを批判する一部の人々は、「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」のようなストリングを多用した曲にはあまりそそられなかった。だがマッカートニーのバンド仲間はむしろスペクターの仕事ぶりに満足気だった。ジョージ・ハリスンが3枚組のソロアルバム『オール・シングス・マスト・パス』のプロデュースを依頼した上に、レノンも『プラスチック・オノ・バンド』と『イマジン』の共同プロデューサーに彼を起用した。この2枚のアルバムはスペクターにしては珍しく音数が少ない。当然の流れで、レノンは史上最高のロックのクリスマス・アルバムを作ったスペクターに、シングル「ハッピー・クリスマス(ウォー・イズ・オーヴァー)」をプロデュースしてもらった。

1974年、スペクターはハリウッドで交通事故に遭い、なんとか一命をとりとめた。車のフロントガラスを突き破り、ほぼ即死の状態だった。数時間にわたる手術により、命だけは助かった――頭から顔にかけて700針、後頭部は400針以上にもおよぶ重症だった。

交通事故に遭う以前、スペクターはワーナー・スペクターという新レーベルを立ち上げた。ワーナー・ブラザーズの子会社で、そこで彼はシェールやハリー・ニルソン、ダーレン・ラヴ、彼が売れっ子になると予想した新人ジェリ・ボー・キーノーなどを収録した。ワーナーと決別した後はフィル・スペクター・インターナショナルと名称を変え、長らく廃盤になっていた60年代の名曲を集めたアルバムを再販した。同レーベル肝入りのニューアルバム『Born to Be with You』はスペクターとディオン・ディマッチ両者にとって復活劇となる予定だったが、批評家の間でも商業的にもひまひとつだった。

その後リリースされた2枚のアルバムは、豊かなサウンドを求めていたカルト的アーティストのために書かれたものだったが、いずれもファンからの評判は良くなかった。1977年にプロデュースしたレナード・コーエンの『ある女たらしの死』は、シンガーソングライターとしてのコーエンの生真面目なアコースティックなスタイルとは対照的だった。1980年には成り行き任せに4枚の古典アルバムをリリースした後、ラモーンズの『エンド・オブ・ザ・センチュリー』の仕上げを任された。伝え聞くところでは、スペクターはラモーンズのレコーディングに銃を携行してメンバーを脅していたそうだ。


Translated by Akiko Kato

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