早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

音楽の歴史を変えたミュージシャンの早すぎた死を回想(Rolling Stone)


ノトーリアス・B.I.G.

Pam Francis/Getty
1997年没 享年24歳


今も未解決であるがビギー・スモールズ(彼の愛称)が走行中の車から撃たれて殺害されると、音楽業界は彼のショッキングな死によって変わらざるを得なくなった。その短すぎた人生の中で彼はトゥパックと激しい敵対関係を続けていた。トゥパックは1996年9月13日に亡くなるがそれによって2人を取り巻く怨恨が和らぐことはなかった。ヒップホップ・カルチャーには暴力が蔓延しており、レコード会社の重役たちはおびえて、もしくは単に無関心でそれを止めようとはしなかった。しかし、それはビギーの死のほんの少し前から変わり始めた。歩み寄りのための話し合いの場が何度か設けられた。スヌープ・ドッグは東西海岸抗争を終わらせるためにショーン・コムズと『スティーブ・ハーベイ・ショー』に出演し、アイス・キューブとコモンはネーション・オブ・イスラムのリーダー、ルイス・ファラカーンが主導した和解のための会談で手を取り合った。何より重要なのは、ドクター・ドレーのオールスター・プロジェクト「イースト・コースト/ウエスト・コースト・キラーズ」など、数えきれないほどのアーティストが歩み寄り、反対側の海岸のアーティストとコラボすることとなったことだ。ビギーの最後のアルバム『ライフ・アフター・デス』が1997年3月25日にリリースされるとその圧倒的な成功によって彼の早すぎる死を取り巻く闇は一部払拭されることとなった。また、それによって彼の評判はその世代で最も才能のあるリリシストの1人として確かなものとなった。

ヒップホップは最も偉大なヒーローの1人としてノトーリアス・B.I.G.の地位を確立しながら変化を続けてきたのかもしれない。しかし、ニューヨークのブルックリン出身の、クリストファー・ウォレスという、あまりにも早く命を奪われた若者も存在したのだ。「あいつは誰にも何もしてない。確かに短気だったし喧嘩もした。でも殺されなければならないことは何もしてない。ラッパーだからだ、なんて誰にも言わせない。そいつが最高のラッパーだから殺されるって言うのか?そいつが最高だからクソ野郎どもは嫉妬するのか?」とショーン・“パフ・ダディ”・コムズは1997年にローリングストーン誌に語っている。

2パック

Al Pereira/Michael Ochs Archives/Getty
1996年没 享年25歳


トゥパックは殺害される数年前から命の危機にさらされていた。1994年の性的暴行の裁判の最中、彼はニューヨーク市内のクワッド・スタジオで何者かに銃で5発撃たれた。翌日、複数の件で有罪判決を受け、彼のキャリアが終わり表舞台から消えていくとファンは思わざるを得なかった(獄中にいながらも彼は1995年の『ミー・アゲインスト・ザ・ワールド』をリリースした)。しかし、数カ月後、マルチプラチナ・アルバム『オール・アイズ・オン・ミー』のおかげで過去最高の人気を得た。常に彼のパワフルで先導的なラップは人生の意味を求め苦悩する若者の喜びと苦しみを投影していた。

1996年9月7日にラスベガスで複数の銃弾を受けてから近くの病院で1週間後に亡くなるまでの彼が銃撃された当時のことは今でも論争を呼んでおり、この事件についての本や親しい友人や関係者からの暴露、そして、中傷や陰謀論まで出ている。事件の数年後も、おそらくマキャヴェリ名義で死後にリリースされた彼の最後のアルバム『ザ・ドン・キラミナティ:ザ・7デイ・セオリー』に感化されたであろう多くの人が、彼はまだ生きていると信じていた。「『自分が老いていく感じがしない』と彼は言っていた」とノーティ・バイ・ネイチャーのトリーチは2010年にMTVニュースで語っている。その死から20年以上経った今でも彼は世界で最も人気のあるラッパーの1人であり続けている。そう考えると、彼がもう存在しないというのは嘘のように感じられる。

アリーヤ

Kevin Mazur/WireImage
2001年没 享年22歳


若すぎる死のせいで都会のミュージック・カルチャーにいたアリーヤは世の中に誤解されていた。3枚のアルバムをリリースしており、その3枚目のセルフタイトル作品は彼女が亡くなる1ヶ月前に出されるとビルボード・チャート初登場1位を獲得した。新しい作品を出すごとにR&Bで実現できることのハードルを上げた。『エイジ・エイント・ナッシング・バット・ア・ナンバー』は荒いヒップホップのセクシーさをなめらかな表面に磨き上げた。『ワン・イン・ア・ミリオン』ではミッシー・エリオットとティンバランドとの見事なタッグがリズム、サウンド、声に変化をもたらした。『アリーヤ』がリリースされるまでには映画にも手を広げるようになり、1999年の『ロミオ・マスト・ダイ』は驚くほどの興行的成功を収めた。また、音楽面ではラジオ向けのR&Bの枠を超えた域へと進み始めた。『アリーヤ』からの2枚目のシングルのPV撮影のためにバハマを訪れたが、2001年8月21日、戻りの飛行機が離陸直後に墜落し、彼女と関係者8人が亡くなった。残念ながら、3枚目のアルバムはアートの発展を象徴するものではなく、彼女から大きく影響を受けたビヨンセやソランジュ、リアーナ、シアラなどを含め多くの今のアーティストにとって彼女が生きていたらどうなっていたかを考えさせられるものとなった。「一番寂しいのはアリーヤの笑い声を聞いたり笑顔を見られなくなったことよ。一緒にレコーディングできなくなったのも悲しいわ。彼女は限界を超えることを恐れないアーティストだったから」とエリオットは2011年にエンターテインメント・ウィークリー誌に語っている。

マイケル・ジャクソン

  Kevin Mazur/WireImage

2009年没 享年50歳

キング・オブ・ポップの晩年の生活は論争に渦巻いていた。彼のこれ見よがしな富や繰り返される整形、奇怪な行動についてゴシップが付いてまわった。児童への性的虐待で告発され、2005年の裁判では無罪の判決を受けたが非難は彼のキャリアと評判に付きまとい続けた。2009年に『ディス・イズ・イット』と銘打ったツアーが、彼の不安定な経済状況を支えるため、またその伝説的なパフォーマーのライブを長年待っていたファンの期待に応えるために企画された。そんな中、2009年6月25日、ジャクソンは処方薬のオーバードーズが原因で突然亡くなった(薬を処方したコンラッド・マーレー医師は後に起訴され有罪判決を受けた)。このような状況にも関わらず、彼の死は世界に彼の才能と(彼が子供の頃のジャクソン5にまでさかのぼる)彼が遺した膨大な数の作品に目を向けさせるきっかけとなった。彼の追悼式は全米で放映され、国葬のように扱われた。中止となったロンドン公演のリハーサルの様子を記録した2010年の『THIS IS IT』は史上最高の興行収入を記録した音楽映画となった。「ビリー・ジーン」や「バッド」、「ブラック・オア・ホワイト」などのカルチャーを決定づけた途方もないヒットの多くが再びチャート入りを果たした。それはすべて、歴史上で最も偉大なエンターテイナーの1人である彼を悼む行為なのである。

ジャクソンが遺したものは輝き続けている。彼は最も利益を生むことができる財産を残したエンターテイナーの1人であり、それは頻繁に訴訟のターゲットにもなっている。大金を稼ぐという以上に、彼の少年のような純粋さと魔法のような曲作り、そして輝かしいパフォーマンスはかけがえのないものである。「俺たちは、ポップ・ミュージックだけでなくすべての音楽を代表する、才能を持った真のアーティストを失くしてしまった。彼は何世代にも渡って影響を与え続けている」とジャクソンの死後の2014年のヒット曲「ラヴ・ネヴァー・フェルト・ソー・グッド」を歌ったジャスティン・ティンバーレイクは語っている。

Translated by Takayuki Matsumoto

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