早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

音楽の歴史を変えたミュージシャンの早すぎた死を回想(Rolling Stone)


フレディ・マーキュリー

Paul Natkin/WireImage
1991年没 享年45歳


もし音源として残っていなければマーキュリーの声は伝説上の存在となっていただろう。クイーンのフロントマンである彼はほとんど努力を感じさせることなく、バラード歌手のような囁くような歌い方から、腹の底から出てくるようなうなり声まで即座に変化させることができた(「キラー・クイーン」で確かめてほしい)。しかし、彼は「ボヘミアン・ラプソディ」でメンバーにオペラのように歌わせ、彼らのユーモアのセンスを見せつけ(「シーサイド・ランデヴー」のカズーや「ブレイク・フリー(自由への旅立ち)」のビデオでの女装)、できる限り大げさで壮大な曲を作ることを目指し(「伝説のチャンピオン」)、戯曲的要素をハード・ロックにもたらした重要な人物である。彼にはステージで「ウィ・ウィル・ロック・ユー」や「レディオ・ガ・ガ」のような曲に合わせて何万人ものオーディエンスに手拍子をさせることができる華やかでエネルギーに溢れた存在感があった。「フレディのパフォーマンスが大好きだ。彼は驚くようなポーズを取っていた。もしかしたら鏡の前で練習していたのかもしれないが、彼は誰かみたいになろうとはしていなかった。彼は『これが俺なんだ』って世界に伝えていたんだ」とマイ・ケミカル・ロマンスのフロントマン、ジェラルド・ウェイは以前語っている。そんな大スターとしての性質を持つ一方、マーキュリーは私生活を公にすることはなく、インタビューに応えることもほとんどなかった。それでも彼がLGBTアイコンになることは避けられなかった。90年代初期には彼がエイズにかかっているのではないかといううわさが囁かれ始めていたが、彼がそれを認めたのはその病気を原因とする気管支肺炎によって亡くなるわずか2日前のことであった。彼の音楽はレディー・ガガからメタリカまで数えきれないほどのミュージシャンに影響を与え続けている。

カート・コバーン

Frank Micelotta/Getty
1994年没 享年27歳


(1960年代初期から70年代後期頃に生まれた)“X世代”にとって彼は最も悲劇的な堕天使であった。ワシントン州アバディーンは力の強い少年たちが幅を利かせるような小さな町で、そこで育ったコバーンはそれに馴染むことができず、八方塞がりで幻滅を感じながら幼少期を過ごした。彼はパンク・ロックを見つけ、オリンピア、そしてシアトルへと移り住んで行き、やがて学生時代の友人クリス・ノヴォセリックとグランジ・バンドを組み、それがニルヴァーナとなった。『ネヴァーマインド』と、苦悩が込められたラウドな「スメルズ・ライク・ティーン・スピリッツ」のイントロのリフは、マイケル・ジャクソンをチャートから引きずり下ろし、シアトルのシーンを世に知らしめ、サウンドガーデンやパール・ジャム、アリス・イン・チェインのようなバンドに道を切り開いたが、それは新時代の到来を意味していた。絶望的な歌詞と心の底からの叫びとエモーショナルなパフォーマンスではみ出し者としての感情を見事に曲に吹き込み、それが上の世代が作ってきた社会的常識から逃れたくてうずうずしていた多くの人たちの共感を呼んだ。

かつてはコバーンも一流のロックスターになることを夢見たが、特に彼のヘロイン中毒と妻のコートニー・ラヴとの騒々しい関係のせいでゴシップ記事の格好のターゲットになってからは、名声に対する嫌悪感をあらわにしている。「不幸にもニルヴァーナはあまりにも速くあまりにも大きくなりすぎてしまった。バンドは増えていく苦痛を一緒に乗り越えていく家族のようなものだ。だから、それが一気にやってきたら対処しきれないんだ」とメンバーのデイヴ・グロールは2016年のインタビューで回想している。唯一の娘フランシス・ビーン・コバーンが生まれた後も、薬物依存(彼が慢性的な激しい胃の痛みのせいだとしていた)は悪化し、27歳でシアトルの自宅でショットガンで自殺する前は、しばらくリハビリを受けていた。彼は遺書にニール・ヤングの「ゆっくり消えていくぐらいなら燃え尽きたほうがいい」という歌詞の前に「もう情熱がない」と書き残した。


ジェリー・ガルシア
Larry Hulst/Michael Ochs Archives/Getty
1995年没 享年53歳


ガルシアはレイジーなレーザービームのようなリード・ギターと宇宙のように広がるアメリカーナの歌詞でグレイトフル・デッドという名の宇宙船を先導する一方、仲間たちと樽に座りバンジョーを弾いている『オールド・アンド・イン・ザ・ウェイ』のジャケットの有名な絵になるようなアーティストであった。ロック史で最も偉大なソングライター、ソロ・プレイヤーの1人であるガルシアはグレイトフル・デッドの土台でもあり核でもあった。熱狂的なファン「デッドヘッド」は彼に教祖的な役割を投影し、彼はそれを完全に拒絶したがそのイメージを振り落とすことはできなかった。

彼の死は70年代に吸い始めたヘロイン(ペルシャ産アヘンだと思われる)の常用に根本的な原因があった。完全に依存するようになり、糖尿病、睡眠時無呼吸、たばこ、他のドラッグの使用、そして主に肉とアイスクリームという体に悪い食生活によって彼の健康はさらに悪化し、負のスパイラルにはまっていった。1986年に倒れ、文字通り死の淵から生還した後は、生活を改め、バンドの人気は更なるレベルに到達した。しかし、つきまとう名声によってまた元の習慣に戻り堕落してしまった。ガルシアは1995年の夏、リハビリ中に心臓発作で亡くなった。レヴァランド・ゲイリー・デイビスの曲で彼が20代の頃によく歌っていたように(後年にも再び歌っている)“死は容赦ない”のだ。

「人としてもプレイヤーとしても彼のすばらしさを測ることはできない。マディ・リヴァー・カントリーというものの本質が何であれ、彼はそれをそのまま具現化したような人間で空に向かって叫んでいるんだ。彼に並ぶ奴なんていないよ」と1987年にガルシア、グレイトフル・デッドと共にツアーをしたボブ・ディランは語っている。

セレーナ

Pam Francis/Getty
1995年没 享年23歳


1995年3月、そのメキシコ系アメリカ人のポップスターはテキサス州コーパスクリスティのデイズインで彼女のファンクラブの会長ヨランダ・サルディヴァルに銃で撃たれ亡くなった。セレーナは殺害された当時、1994年のヒット・アルバム『禁じられた愛』に続く、英語のクロスオーバー・アルバム『眠れない夜』の制作に力を入れていた。セレーナのファンクラブと洋服店『Selena Etc.』の経営をしていたサルディヴァルは横領でセレーナの家族から非難を受けていた。

テハーノ歌手の第3世代として、セレーナは単にメキシコ系の人々のアイコンであるというだけではなかった。彼女は文化と国民意識への苦悩の狭間で育った多くのラテンアメリカ系の人々のヒーローであり続けている。また、男社会であったテハーノ・ミュージックにおいての女性としての先駆けであり、後にテハーノの女王と呼ばれるようになった。

元々ドゥー・ワップ歌手であった父、エイブラハム・キンタニーヤ・ジュニアは8年生のセレーナに学校を辞めさせ、家族でやっていたバンド、セレーナ・イ・ロス・ディノスで歌わせた。そのため、彼女はスペイン語を第2言語として何年も勉強した。そして、彼女はテハーノ・ミュージック・アワードで最優秀女性ボーカリスト賞を9年連続で勝ち取ることとなり、1994年には『セレーナ・ライブ!』で彼女の最初で最後となるグラミー賞を獲得し、殺害される前の月にはヒューストン・アストロドームとマイアミのカエ・オーチョ・フェスティバルで観客動員数記録を更新した

亡くなった3か月後、『眠れない夜』がリリースされ、全米ビルボード200チャートで1位を獲得した。ラテン・アーティストとして史上初の快挙であった。ジェニファー・ロペスは有名な1997年の伝記映画『セレナ』で彼女の役を演じブレイクを果たした。彼女の名前をもらったテキサス出身のセレーナ・ゴメスは去年、「パパとママが彼女の音楽が大好きで私に彼女の名前を付けたの。夢みたいな話よ。彼女の家族に会うことができてすごく感激したわ。もし彼女が生きていたら今どうしているかしら。すごい話だよね」とサクラメントのラジオ局NOW100.5で語っていた。

Translated by Takayuki Matsumoto

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