早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

エルヴィス・プレスリー

Michael Ochs Archives/Getty
1977年没 享年42歳


そのおおらかな態度と整った少年のようなルックス、そして言うまでもないすばらしい声によってエルヴィス・プレスリーは初期のロックンロールにおける最も偉大なサクセス・ストーリーとなった。50年代中期から彼はテレビや「ハウンド・ドッグ」、「ハートブレイク・ホテル」、「冷たくしないで」などのナンバー1を獲得した曲で見せた腰を振るパフォーマンスで世のティーンエイジャーたちを揺り動かした。彼はカントリーもロックンロールもゴスペルも歌うことができた。1958年には徴兵命令に従い、音楽活動を2年間休止することとなったが、任務に付く前にレコーディングしていた数々のヒット曲や1960年のフランク・シナトラのテレビの特別番組への出演のおかげで、それが彼のキャリアの障害となることはなかった。彼は1960年代の大部分を映画を撮ることに費やしたがNBCのエルヴィスの特別番組(『68カムバック・スペシャル』)でスター・シンガーとして復帰し、ラスベガスで定期公演を始め、ついには「サスピシャス・マインド」で約10年ぶりの1位を獲得した。

しかし、70年代になって彼の私生活は崩れていった。妻のプリシラと別れ、太り始め、アルコールに手を出すことはなかったが睡眠薬や精神安定剤、覚醒剤に手を出すようになった。「ベガスの時期は過小評価されていると思う。その頃が最もエモーショナルだったと思うよ。その頃までにエルヴィスが明らかに自分の生活をコントロールできなくなっていて、信じられないような哀愁が出ていた。晩年の彼の声量のあるオペラ的な声には本当に心が痛んだよ」とボノは以前語っている。プレスリーがグレイスランドの自宅の浴室で亡くなっているのはガールフレンドによって発見された。公式には死因は心臓発作あると結論付けられているが、薬の使い方が死の一因となったのかも知れないという見解もある。それ以降も彼のものまね歌手が出てきたり(「おしゃべりはやめて」のリミックスなどの)新しいナンバー1ヒット曲が生まれるなど、彼の影響力は大きくなり続け、彼がこれからもキングであり続けることを証明している。

ロニー・ヴァン・ザント

Ronald van Caem/Gijsbert Hanekroot/Redferns
1977年没 享年29歳


10月20日、レーナード・スキナードはコンベアのチャーター機に搭乗し、ギタリストのアレン・コリンズは右翼のエンジンから炎が上がっているのを見てパニックに陥ったが、バンドは新しいアルバム『ストリート・サヴァイヴァーズ』のツアーでサウスカロライナ州グリーンビルから(ルイジアナ州の)バトンルージュに向かわなければならなかった。「もし神様が俺たちはこの飛行機で死ぬべきだって言うなら、それがその時だというなら、そういうことだ。行こうぜ、みんな。俺たちにはやるべきライブがあるんだ」とボーカルのロニー・ヴァン・ザントはメンバーに言った。

パイロットはミズーリ州の平原に緊急着陸を試みたが機体は林をなぎ倒し、地面に叩きつけられた。メンバーのほとんどは生還したがヴァン・ザントはギタリストのスティーヴ・ゲインズとその姉のキャシー(コーラス担当)とロード・マネージャーのディーン・キルパトリックと共に即死であった。バンドが炎に包まれている『ストリート・サヴァイヴァーズ』の不気味にもそれを予兆していたかのようなジャケット写真はすぐに普通の写真に差し替えられた。

この事故はただメジャーなロック・バンドからフロントマンを奪ったということを意味しているのではない。グレッグ・オールマン以来、最も影響力を持っていたサザンロック出身のシンガー兼作詞の人生を終わらせたのだ。ガタイがよく気難しそうに振る舞うステージでのヴァン・ザントからは鍛えあげられた男らしさがにじみ出て、アメリカ版ヴァン・モリソンといった雰囲気であったが、彼がバンドと一緒に作った曲は田舎者の単純でありきたりなものではなかった。バンドは彼の昔の苦労(「フォー・ウォールズ・オブ・レイフォード」)や、自己不信と道徳的苦悩(「ワズ・アイ・ライト・オア・ロング」)、憂鬱(「フリー・バード」、「チューズデイズ・ゴーン」)を曲にした。犯罪歴があり高校を中退しているヴァン・ザントは反全体主義の南部地域の誇りを投影した(「ワーキン・フォー・MCA」)真のポピュリストであった。「過小評価されているね。これらの曲の多くはみんなが思っているよりもはるかにスマートなものだ」とジェイソン・イズベルは語っている。

キース・ムーン

Jan Olofsson/Redferns
1978年没 享年32歳


ザ・フーのドラマー、キース・ムーンほどのロックスター的ライフスタイルを送ったことがある人はほとんどいないだろう。バンドの悪評がわずかに囁かれるようになった時から、彼の生活はホテルの部屋をめちゃくちゃにしたり、車を破壊したり、1回が何日も続くようなパーティをしたりの酔っ払いのどんちゃん騒ぎ状態になっていた。もし彼がロック史上最も偉大なドラマーの1人でなければ、もし彼が1964年にザ・フーに加入して「無法の世界」のような名曲を彼のワイルドで独特なドラミングを見せつけるような曲にし、バンドの「マキシマムR&B」サウンドのバックボーンとなるような、有無を言わさぬほどの野性的な力を持っていなければ、誰もそれに耐えることはできなかっただろう。しかし、1978年までに、ついに彼にそのようなライフスタイルのツケが回ってきていた。彼は太り、ひどくアルコールにおぼれ、レコーディングで基本的なドラム・トラックを録ることすらままならなくなっていた。その年の9月6日、彼はバディ・ホリー・ストーリーのプレミア試写会に行った後、ロンドンの自宅に戻った。偶然にもそこは4年前にママ・キャスが亡くなった場所であったが、その夜、彼は(アルコールの禁断症状を抑えるために)クロメチアゾールの錠剤を32錠飲み、その結果亡くなってしまった。

「彼は幸せというものを知らなかったと思う。愛情を返すのが最も難しいタイプだったんだ。彼はすごく明るいやつだったから、こっちも大げさにハイテンションに振る舞う必要があって。例えば、キースに挨拶をしなかったり、彼がほんの5分スタジオを離れて戻ってきただけだったとしても、みんなの口にキスしようとするようなやつだった」とピート・タウンゼントは1982年にローリングストーン誌に語った。

イアン・カーティス

Martin O’Neill/Redferns
1980年没 享年23歳


ジョイ・ディヴィジョンは1980年の春に、革新的なポスト・パンク・バンドとして認知され始めたところであったが、そのバンドのフロントマンにとって称賛を得ることは何の意味も持たなかった。ほぼすべてのジョイ・ディヴィジョンの曲に激しい悲しみと空しさと憧れを吹き込んだ深みのあるバリトン・ボイスを持ったカーティスであったが、患っていた深刻な鬱とてんかん(ステージ上で発作が出ることもあった)の治療に効果が出ず、彼は苦しんだ。また、ベルギー人ジャーナリストとの浮気が(生まれたばかりの娘の母でもあった)妻に対する罪悪感を生み、彼は苦しんでいた。その苦しみのすべてを最後に遺した曲のうちの1曲「ラヴ・ウィル・テア・アス・アパート」に込めた。この曲のリリースの数週間前、彼はイギー・ポップの「イディオット」を聞きながら自宅のキッチンで首を吊った。残されたメンバーはニュー・オーダーとしてバンドを続けたが、そのショッキングな死を乗り越えることはできなかった。

「彼は彼自身にとっての最悪の敵だった。てんかんの診断が下された時、医者が彼に言ったんだ。『もし大きな音やアルコールを避けて静かな生活を送れば君は大丈夫だ』って。バンドにいたらどっちも無理なことだった。彼はバンドをあきらめたくなかったんだ。他のメンバーと同じように情熱を持っていたし熱中していたからね。彼は自分の中にひどいジレンマを持っていたようだ。苦しかっただろうけど俺たちは何の役にも立てなかった」とジョイ・ディヴィジョンのベーシスト、ピーター・フックは2013年にローリングストーン誌に語っている。

Translated by Takayuki Matsumoto

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