ヒクソン・グレイシーが語る、パーキンソン病との闘い、悟りの境地

プロレスラー安生洋二の道場破り事件

ヒクソンへの挑戦で最もよく知られているのが1994年12月、安生洋二との一件だろう。発端は「VALE TUDO JAPAN OPEN 1994」でヒクソンが優勝したことだった。その後、日本の総合格闘家である高田延彦が挑戦を表明。それに対してヒクソンは次回のトーナメントにエントリーするよう求める。高田の団体の所属選手だった安生は師匠の挑戦のフォローアップとして、ロサンゼルスに向かった。

「挑戦してきた人間の大半は姿を現さないんだよ」。マグワイアは私に告げる。

マグワイアによると、ヒクソンは戦う心構えが常に出来ており、「犬には勝手に吠えさせておく」ままにしていた。だが今回、安生は報道陣やプロモーター達を引き連れてピコ・アカデミーを訪れ、ヒクソンが臆病者だと挑発したのだった。

ヒクソンは自宅で就寝していたが、息子の運転する車でアカデミーに向かい、車内で拳にテーピングを巻いた。安生のみがアカデミーの中に迎えられ、報道陣やプロモーターは外で待たされることになった。マグワイアによると、戦いが始まると安生が数回蹴りを放った。ヒクソンはまだウォームアップ中だと告げる。だが彼の準備が出来ると、安生をマットにテイクダウン。日本人ファイターの安生はヒクソンの口に親指を突っ込み、頬に向けてフックして引っ張ろうとする。それに対してヒクソンは、安生にメッセージを伝えることを決意し、指を口から出すと、逃げられないように押さえ込んだ。

パンチが雨のように降り注ぎ、安生の鼻は平らになる。一連の打撃の後、ヒクソンは安生をチョークで失神させた。それから数日後、安生は再びアカデミーを訪れたが、このときは侍の兜を手土産に、非礼を謝罪している。

ブラジリアン柔術で黒帯を締める12人ほどのアメリカ人の1人であるクリス・ハウターは初期からのアカデミーの門下生だった。彼はマグワイアと同じく、ブラジリアン柔術を学ぼうと門を叩いている。

これまで対戦してきた他流派のファイターについて、ハウターは「彼らはマスケット銃(16~19世紀に使われた前装式の歩兵銃)を持っているようなものだった」と例える。「我々はM-16を持っているんだ」

マリブから30分、ソーンヒル・ブルーム・ステイト・ビーチを隔てたパシフィック・コースト・ハイウェイ沿いに、100フィートの高さの砂丘がある。週末になると大勢の観光客が、足場が固められた経路をトレッキングしている。頂上まで登ると、太平洋の透き通ったブルーの海岸線が何マイルも伸びていくのを一望することが可能だ。だが90年代、世界最強の格闘家として最盛期にあったヒクソンにとって、早朝の砂丘は恐怖の対象だった。

まだ観光客がフウフウ言いながら登り始める前の未明、彼はパシフィック・パリセイズの自宅から車で砂丘に乗り付ける。浜辺とアスファルトが交差するハイウェイの路肩に車を停めると、彼は太平洋を背にして、砂丘の柔らかい足場を頂上まで登り下りする。何度も、力が尽きるまでだ。砂丘を登るのと同じ胸の圧迫感と脚の疲労感をリングでも感じることが出来れば、彼は山を征し、頂上に立つことが出来るのだ。どんな格闘者であっても、自分が最もタフであると信じ込ませる何かがあるものである。マグワイアによるとモハメド・アリはスカルプ・ヒル山を駆け上がり、マイク・タイソンは毎日10から12ラウンドのスパーリングをこなし、マーヴィン・ハグラーは軍靴を履いてランニングをしていたという。


グレイシー一族:エリオ・グレイシー(左から2人目)と彼の息子たち、左から、ホイラー、ホウケル、ヒクソン、ロビン(Photo by David Yellen/Getty Images)

Translated by Tomoyuki Yamazaki

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