ヒクソン・グレイシーが語る、パーキンソン病との闘い、悟りの境地

アメリカ移住と夢の実現

彼にとっての大きなターニングポイントは、ブラジルを出たことだった。彼はアメリカで夢を実現させ、自分の望む人生を実現させようとしたのだ。

「この国で暮らして、子供を育てるのは、初日からエキサイティングな経験だったよ」。ヒクソンは語る。

彼がロサンゼルスにやって来たのは1989年のこと。兄ホリオンの道場でインストラクターとして手伝うためだった。アメリカにブラジリアン柔術を広めたのはホリオンだった。間もなくヒクソンは独立、自分のスクールを開いている。

ブラジアン柔術が知られるようになるまで、アメリカの格闘技界の大部分はブルース・リーとカンフーに夢中だったが、その中には映画で映えるが路上で使えない、実践的でないキックやパンチが多くあった。グレイシーはボクシングやカンフーの使い手が練習したことのないグラウンドの戦法を駆使して、圧倒的な勝利を収めることになった。

“ピコ・アカデミー”はロサンゼルスのセパルヴェダ・ブルヴァードとピコ・ブルヴァードの交差点の修理工場の隣にあり、夏は暑く冬は寒かった。

「酷かった。建物からして見すぼらしかったよ」。ヒクソンは私に言う。「でも、あの建物から新しいチャンピオン達が生まれたんだ」

ヒクソンは当初、同じスペースを空手道場と日替わりで共用。週3日のクラスを持っていた。それから彼は朝夕2回のクラスを行うようになり、最後にはスペースを占有、クラスは毎日となった。「おそらくアメリカで最高の格闘技スクールだったね」とマグワイアは私に言っている。

そのアカデミーは今では布地店で、99セント・ショップの隣にある。マグワイアが初めてヒクソンと会ったとき、まだ英語が流暢でなかったことを記憶している。当時ヒクソンはコーチとサーフィンをしていたが、後者の方により熱心だったという。マグワイアは言う。「良い波が来ると、彼はクラスに来ないこともあったよ」

だが、いざ教えるとなると、彼のクラスは苛酷なものとなった。マグワイアは昼休みの時間帯にレッスンを受けていたが、生徒は夜勤の警官や大麻の売人、定職に就かない遊び人など多岐にわたるものだった。彼はそれを「刑務所の庭でのランチタイム」と呼んでいる。トレーニングはまず1時間近くのウォームアップから始まり、続いて2時間みっちりとテクニック講習とスパーリングが行われる。マグワイアはシャツを2枚持参し、ウォームアップの後に着替えていた。「私は格闘技の修練を積んでいたんだ」。彼は言う。「それでもぎりぎりの限界まで自分を追い込んだ」

ヒクソンはブラジリアン柔術が最強格闘技であることを証明するためにどこでも、誰とでも戦う意志を持っており、再度にわたりそれを実証した。

そんな挑戦マッチの噂が広まったことで、ファイター達はその戦闘法を学ぶべく、彼のクラスを訪れるようになった。

「痩せっぽちのブラジル人たちが、あらゆる相手を倒していくんだ。私なんかより強い、世界レベルのキックボクサーとかをね」。マグワイアは語る。「こいつは怖いなと思ったから、じゃあ自分も習わなきゃって」

Translated by Tomoyuki Yamazaki

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