ヒクソン・グレイシーが語る、パーキンソン病との闘い、悟りの境地

「パーキンソンをトランクに閉じ込めてやるんだ」

私がヒクソンにインタビューしたのは2年前、ベストセラーを記録した『ヒクソン・グレイシー自伝』について訊いたときだった。それは彼がパーキンソン病であると診断された時期とおおむね重なっている。紹介してくれたのは同書の共著者であり友人のピーター・マグワイアだった。そのとき、私は震えに気付かなかった。彼の動作が年齢のせい、そして苛酷な格闘人生によってややスローになっているように見えたが、まだアスリートらしいきびきびとした動きをしていた。

「しばらく前から疑いはあったんだ」と語るマグワイアは『ヒクソン・グレイシー自伝』の共著者であり、ヒクソンのパーキンソン病との闘いを描く続編を執筆中だ。「悲しく皮肉なことだよ。現役時代、誰よりも自分の身体をコントロールしていたのが彼だったからね」

私がヒクソンと再び会ったのは7月、カリフォルニア州トランスの工業団地にある彼のアカデミーだった。ここはトレーニング用スペースと小さな事務所だけがある、質実剛健な道場だ。到着したとき、彼はその場をうろうろしていた。我々はマットの近くにある2脚の椅子に落ち着く。私の向かいに座っている彼を見ると、パーキンソン病の兆候に気付かずにいられない。彼の膝はまるで赤ちゃんをあやしているように跳ね上がる。彼の手は震え、しばしば全身を振動が走る。

だがヒクソンは、そんな症状に慣れたと私に語る。彼にとってパーキンソン病は自動車の後部座席でいつまでもしゃべり続ける、迷惑な人間のような存在だ。自らの身体のコントロールを取り戻す決意を抱く彼は比喩を用いて話す。「パーキンソンをトランクに閉じ込めてやるんだ」

「死ぬのは怖くない」ヒクソンは語る。「誰だって死ぬんだからね。でも諦めることは受け入れられない選択肢だ」

1959年、リオデジャネイロに生まれたヒクソンは、18歳の頃には黒帯を締めていた。彼の父エリオ・グレイシーはリオのアカデミーを訪れる道場破りをことごとく返り討ちにした。試合を経るごとにグレイシー一族の名は高まっていき、柔術はMMAファイターからハリウッド俳優、アンソニー・ボーディンのような有名シェフまでが門を叩く世界的な現象へと発展していった。

「私はアートを代表しているんだ」。父親の肖像画が見下ろす中、ヒクソンは私に告げる。「私は生きざまを、一族を代表している。その責任はとてつもなく大きい、私自身の生命より重いものだ。死んでもいいと考えていたよ」

ブラジリアン柔術の頂点に位置するグレイシー一族の中でも、ヒクソンは最強と考えられている。彼が抜きん出ていた理由を問うと、彼は運動神経とよどみないテクニックを挙げた。だが彼はそれに加えて、勝利への執念が一線を画していたと主張する。

「基本的に私は人生ずっと無敗だよ」。彼の発言には皮肉のかけらもない。「さまざまなスタイルの相手と戦って、勝利を収めることが出来た」

ヒクソンにとってプロとして初の試合は1980年、キング・ズールとのヴァーリ・トゥード戦(ノールール、ベアナックルのMMA)だった。1994年から日本で2回のヴァーリ・トゥード・トーナメントとMMAマッチ3戦で勝利を収めている。2000年には東京ドームで4万人以上の観衆と3千万人のペイパービュー視聴者を前にした100万ドルのビッグ・マッチが行われ、日本の船木誠勝を撃破した。


1995年、東京で開催された『VALE TUDO JAPAN OPEN 1995』決勝戦。格闘家の中井祐樹にKO勝ちを収めたヒクソン(Photo by Yukio Hiraku/ALAMY)

Translated by Tomoyuki Yamazaki

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