長谷川白紙が語るフジロック、比類なき音楽家が辿り着いた新境地

長谷川白紙

複雑な楽曲構造と圧倒的なポップさを両立する音楽性が広い層から支持を集める長谷川白紙。初となるフジロック出演の準備と並行して、ニューアルバムの制作中であるという。自身の身体が持つ複雑さや撹乱性を、時間の使用によって統合的に示す。非常に興味深い話を伺うことができた。


来たる新作のモードを明かす

―先日のライブ「EPONYM 1A (TOKYO)」(今年5月、Zepp Shinjuku(TOKYO)にて開催)、本当に素晴らしかったです。新曲を多数披露されていましたが、今までの曲と比べてかなりヘヴィなサウンドになっていて、驚く一方で大きな感銘を受けました。制作中のニューアルバムはどんな方向性になっているのでしょうか。

長谷川:まず、言及いただいたように、サウンドの合成法というか、どういうサウンドを自分で鳴らそうかという方法が、『エアにに』(2019年の1stアルバム)の頃からだいぶ変わってきた、というのがあります。単純にここ最近、気付きが多かったんですね。いろんなアーティストの音を知って、いろんな合成法を知って。オーケストレーションの方法が自分の中で一つ増えた感覚がありますね。

この話をしようとすると、どうしてもわたしの身体感覚について説明する必要があります。以前のインタビューや配信で、自分の中ではベースがあまり重要視できない、という感覚を伝えたことがあったんですけど、それを自分で想定できるようになってきた。リズムを考える上で、混沌とした拍点のみがあるのではなくて、一定の単位で整理されたリズムの作り方というのがあることに気付いた。それは、ヒップホップを熱心に聴くようになって気付いたことです。これまでのわたしは、リズムということに関して言うなら、整理された一定のリズムパターンというのをあまり認識できていなかったような気がします。でも、最近はそれができるようになってきて。

これはおそらく、わたしの打てる手が増えてきたということなのだと思います。ある程度のスペースを伴ってリズムをデザインする箇所と、そうではない箇所を、ともに意図的に作れるようになってきた。ベースについてもそう。低音が飽和していって拍点がわからなくなる箇所があれば、同時にそれを強調することもできるようになった。まあ、他の人からしたらカオスから何も変わってないように聴こえるかもしれないんですけど(笑)。

低音の活かし方についても、自分の中で“撹乱の様態が増えた”ということなんだと思います。わたしは、自分の身体感覚から作曲というかプロセシングを始めることが多いんですね。『エアにに』あたりまでは、低音というものが持つ、リズムを規定するというある種の権威的な能力に対し、「そうではない」という反抗の仕方しかできなかった。それが今では、低音というものが持つ権威性を解体するのか、もしくはそれをわざとらしく誇張してみせるのかというところにおいて、グラデーションを得られるようになってきている感覚があります。


今年5月8日、「EPONYM 1A (TOKYO)」にて撮影(Photo by @hayatowatanbe)


「EPONYM 1A (TOKYO)」のセットリストをまとめたプレイリスト

―新曲では、白紙さんのボーカルがバリトン寄りの低域を前面に出すようになってきた印象があって。『エアにに』までの音源ではファルセット寄りの発声で、バックトラックに綺麗に溶け込む響かせ方が主だった。しかし、『夢の骨が襲いかかる!』(2022年のカバーアルバム)以降は、エモーションの発露というか、良い意味でぶざまに聞こえるような分厚い響きを出すのを恐れなくなっているように思います。

長谷川:その評価はありがたいです。先にお話した、あるものに対しそれを解体したり無化したりすることもできれば、わざとらしく誇張してみせることもできるというのは、わたしが近年学んだ非常に重要な軸なんですね。そして、その多くがクィア理論のやり方からきています。声についても、わたしの身体、喉がすでに持っている撹乱性というのを、わたしは使用できるようになってきている。わたしの身体が持っているぶざまな部分であるとか、恐ろしい部分、気持ちの悪い部分、不快な部分ーー今のわたしは、それを見せることに執着している。それが最近のわたしの根底にある指針なのだと思います。

こうしたことは、新作の方向性にも非常に関わっています。複製芸術が乗り越えるべき問題が「身体」にかけられていると感じるんですよね。我々は音楽をやるときに、聴取者に対してある一定の時間ここに留まるように、という要請を必ずする。ある一定の時間を拘束力を伴って提出するというか。その権威性に対して、わたしは無自覚ではいられないんですよね。ある一定の時間を要請するときに、では何故それを要請すべきなのかということです。ジョン・ケージが「統合された時間の使用」という言葉を用いて表現していたんですけど、これは非常に重要な視座だと思っていて。わたしの身体が持っている複雑性であるとか、混沌であるとか、撹乱性というものを、その時間の使用によって示す。身体とはすべて複雑なものであるということを、音楽によって提示できるかもしれない、という目的があるんですよね。それが、わたしの背負っている役割のような気がしています。

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