浅川マキLIVE伝説――プロデューサー寺本幸司が語る「歌は死なない」の意味

あのひとは行った / 浅川マキ

田家:作詩作曲は浅川マキさんで、77年のアルバム『流れを渡る』に入ってました。このアルバムのメンバーすごいですね。ベース吉田建、ギター内田勘太郎、ドラムつのだひろ、ギター萩原信義、ピアノ白井幹夫、そして坂本龍一がオルガン。

寺本:これは、明大キッド・アイラック・ホールで録音したものの1曲なんですけどね。そのためにマキは作ってきたっていうかな。結局いま思うと、ぼくはお産婆さんみたいなもんで、マキがこの曲ができて、この曲を録音したいって、いちばん初めに聴くのはぼくなんです。

田家:取り上げてあげる。

寺本:そうそう、でも「最後のこのフレーズどうなの?」とかいう場面があったりしたとき、ぼくが何かヒントのようなコトバをいって、マキが手直しをしたりする。これだったらおぎゃあと生まれて来ていいよな、という場面がある。この曲もそんな中の1曲なんですよ。これから先、あたしはジャズミュージシャンたちと違う音楽世界に行く。1番があって2番があってサビがあって、みたいな歌はうたわなくなるかもしれない。このメンバーでやりたいって彼女がこの歌を持ってきたんですよね。時が流れて、北海道ツアーの最終日の釧路で、このメンバーで、この歌を聴いたとき、「歌ってやっぱり死なないんだな」ってつくづく思った楽曲なんで、選ばせてもらいました。

田家:なるほど。北海道ツアーっていうのは、第2回北海道ツアーだったっていうふうにライナーノーツでお書きになっていましたよね。あまり北海道っていうのはツアーで回ったりはしてなかった?

寺本:デビューしたてのころは、萩原と2人で方々へツアーっぽく回りましたけど、バンドを組んでからは、九州なんかも行ったりするんですけど大体2ヶ所くらい。けど、浅川マキの濃いファンが北海道には結構いてね、マキは、北海道ツアーをやるからにはっていう感じのマキ自身の意気込みもあった気がします。そういう思い入れが強い場所なんですね。

田家:1回目が1974年で、この93年は19年ぶりだった。

寺本:ツアーとしてはね。その他に札幌と旭川を2日間やるとかってことはあったし、呼ばれた場合には少ないメンバーで行くみたいなこともあったんだけど、自分で納得するメンバーと一緒にツアーをする北海道は、2度しかやってません。

田家:93年は札幌、小樽、旭川、根室、釧路。釧路生涯学習センター大ホールは800人ぐらい入る大きめのホールですもんね。

寺本:このツアーは札幌に行ったくらいで、全部付きあったわけじゃないけど、1回目のツアーのときは演出のこととかあって全部同行しましたね。公演場所を決るために下見に行ったとき、かならずマキと客席のあらゆる場所に行って、手を叩いて音の確認をするんですよ。「壁に音が吸い込まれないし、いい反響だわ、ここの小屋でやろうよ」って。釧路の生涯学習センターは、いわゆる多目的ホールみたいなところで、マキと柴田は音鳴りをチエックしてここにしたんだと思うんです。録音された音を聞きながら、選曲するとき、ここがいちばん音鳴りがいいなって思ったのと、マキが気合入れてやっているんですけど、ツアーも最終日だし、カラダから「頑張らなきゃ」みたいなのも落ちて、「最後だね」っていう感じがマキの歌にもMCも全部出てるんですよ。

田家:19年ぶりの北海道ツアーの最終日ということで、そこに南正人さんが遊びに行きました。その曲をお聞きいただきます。「今夜はオーライ」。

Rolling Stone Japan 編集部

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