浅川マキLIVE伝説――プロデューサー寺本幸司が語る「歌は死なない」の意味

こころ隠して / 浅川マキ

田家:『1991年3月30日「浅川マキを聴く会」@新宿PIT INN』の中「こころ隠して」。作詞が浅川マキさんで、作曲が近藤等則さん。オリジナルが先週も話に出た1982年の『CAT NAP』の中の曲で、近藤さんが全曲を書いたアルバムでした。

寺本:文芸坐ル・ピリエが93年に閉館になったりして、浅川マキはPIT INNに戻ったっていったらおかしいけど、PIT INNをライヴ活動の表舞台にするようになったんです。そのときから、ピアノが渋谷毅で、ベースが川端民生、ドラムがセシル・モンローで、サックスが植松孝夫のセッション・バンドが決まりになった。そこへトロンボーンの向井滋春が加わったり、この夜は、ルースターズのギター下山淳。下山はこのライヴだけ出てるんですが、このメンバーでこの曲をやるっていうのが面白い。これで近藤が入ったらまた別にものになっちゃうので、なかなかいいなと思って選ばせてもらいました。

マイ・マン / 浅川マキ

田家:『1991年3月30日「浅川マキを聴く会」@新宿PIT INN』の中の「マイ・マン」をお聴きいただいてます。ビリー・ホリデーの代表曲ですね。82年にシングルカットもされております。このPIT INNってのは、やっぱりマキさんの中でもある種の特別な場所だった。

寺本:特別な場所ですね。マキはジャズの聖地だっていってましたから。PIT INNには、それだけ思い入れがあるんです。

田家:特にマキさんは新宿蝎座出身ですからね。

寺本:元新宿のアングラの女王でしたからね(笑)。PIT INNには、自分が出る出ない関係なしによく聴きにいって、そこで川端民生の音を聴いて、惚れ込み、「ぜひ、あたしとやってよ!」って口説いた感じがあるんですよ。

田家:なるほど。先週は京大西部講堂に最初は出してもらえなかったという話がありましたけども、PIT INNではそういう反応があったんですか。

寺本:いや出してもらえないなんてことはなかった。山下洋輔と一緒に組んだあたりから、浅川マキはスイングジャーナルで名前が出てくるようになったし、ある意味、ジャズ界に認知された流れがありましたから。

田家:マキさんのライブテイクがいくつもあって、蝎座とか西荻窪「アケタの店」とか、明大前キッド・アイラック・ホールとか吉祥寺曼荼羅とか、いわゆるコンサートホールでもないし、有名な人がやるっていう会場じゃないところのテイクが割と多いのかなとか。

寺本:スタジオ録音が多チャンネル化して、ピアノはフロアーにあるけれど、ドラムもベースも管楽器まで仕切りのある部屋に入れられて、マキもテレビモニターを見ながら歌うなんてレコーデイングが、ぼくも含めてイヤになった時期なんですよ。「昼間、ちょっと使わせてくれない?」 とかいったら、「アケタの店」の明田川荘之さんが乗ってくれて、「貸切りでレコーディングするのもOKだが、ひと月うちでやらない?」とかって、ひと月公演をやったりする。キッド・アイラック・ホールもそういう感じで借り切ってレコーディングしたりしました。

田家:いわゆるレコーディング。

寺本:「音が回ったっていいじゃないの」って、いつも浅川マキは言ってて。吉野金次っていう天才ミキサーとやっていた頃で、キッド・アイラック・ホールに16チャン持ち込んで坂本龍一がオルガンで入って同時録音するわけです。ヴォーカルは後からもう一回やることもあるんだけど、ライヴ感覚っていうよりも、「あたしは蠍座でデビューしたんだから」って、マキはそこにすごくこだわりましたね。

田家:そういう浅川マキさんらしさが詰め込まれた6枚ではないかと思うんですが、寺本さんがPIT INNで選ばれた、「ガソリン・アレイ」。

Rolling Stone Japan 編集部

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