浅川マキLIVE伝説――プロデューサー寺本幸司が語る「歌は死なない」の意味

ガソリン・アレイ / 浅川マキ

田家:『1991年3月30日「浅川マキを聴く会」@新宿PIT INN』中の「ガソリン・アレイ」。ロッド・スチュワートの1970年のヒット曲、代表曲でもあります。

寺本:マキはロッド・スチュワートが大のお気に入りで、フェイセズをやめて帰ってきた山内テツと組む、みたいなとこがあったりして、そういうとこはすごくこだわりいっぱいの女なんです。マキの「ガソリン・アレイ」の日本語詞、すごくいいと思ったし、ジャズミュージシャンと組む以前は結構やったんですよ。下山淳がPIT INNに出たとき、ぼくは行ってないんですけど、これを聴いて、下山が「ガソリン・アレイ」やってるなんてめちゃくちゃ凄いとことだと選曲しました。このBOXを出すと決まったあと下山と話したんですが、「ルースターズ時代からマキさんは、よく聴きに来てくれていて、このPIT INNだけちょっと来てくれないかな、といわれて出たんです」と。下山とはマキは他でもやってるけど、音として残ってるのはこれだけなんですよ。

田家:すごいな。そういうレアテイクが入ってる。カバーもそうなんでしょうし、ミュージシャンの選択もマキさんが自分で聞いていいと思った人のところに、一緒にやりたいって言いに行ったりする。

寺本:マキはギャラに関しても、アタマからこれしか払えないけど、ってきちんとするから、「いつもちゃんと払ってくれましたよ」って、つのだひろもいうぐらいミュージシャンとの付きあい、きちんとしてましたね。

田家:そういうところは自分のプロデューサーだったっていう面もあるんですね。

寺本:マキは、ぼくと知りあうまえから、譜面を持ってキャバレーとかクラブとか回って歌って、お客さんにウケるウケないみたいな仕事をずっとしてきてるから、いわゆるミュージックビジネスっていうのをちゃんと知っている。

田家:そういう裏側っていうか一番つらいところも経験してる。今日の後半はDisc6、6枚目ですね。『1993年6月30日「浅川マキ・北海道ツアー最終日」@釧路・生涯学習センター・大ホール』からお聞きいただきます。これもカバーです。「センチメンタル・ジャーニー」。

センチメンタル・ジャーニー / 浅川マキ

田家:「センチメンタル・ジャーニー」。ドリス・デイでヒットしたスタンダードですね。

寺本:「センチメンタル・ジャーニー」は、寺山修司が銀巴里に来たときにも歌ったのよ。だから浅川マキにとって、ゴスペルとかブルースを歌っている中で「センチメンタル・ジャーニー」っていう曲はあったわけ。だから今回、寺山との出会いの曲でもあるし、これを聴いてもらいたかったったんです。

田家:これは訳詞が浅川マキさん。改めて思ったんですけど、カバーのマキさんの訳詞は独特ですね。日本語でちゃんと自分の歌に、もちろんご自分で訳されてるわけですから。でもいわゆる訳詞って感じがないですね。

寺本:マキは、「この歌を日本語で歌うなら、あたしはこう歌うわよ」って決めてる。だから「朝日のあたる家」は「朝日楼」というタイトルにして日本語詞をつけてます。そういう感じなんで、「赤い橋」を加藤登紀子が歌いたといって来たとき、マキは「ダメ、あたしが歌うためにコトバ(歌詞)をつけているんだから、誰かが歌うと、それはあたしの歌じゃなくなっちゃうの」って断った。そんな風に、みんな断ってたんですよ。ところが1980年くらいに、ぼくが「ちあきなおみ」をちょっとやってる時期があって、草月ホールのちあきのコンサートを構成演出したとき、ちあきが、どうしても「朝日楼」を歌いたいっていうんで、マキに電話して、「ちあきが朝日楼を歌いたいっていってるけど、いいかな?」といったら、そく「いいわよ、ちあきなら」って。それでちあきは歌って。ちあきが歌ったいろんなカバー曲あるけど、いまでもYouTubeでいちばんアクセスあるのは「朝日楼」だったりしてね。

田家:すごいな。浅川マキとちあきなおみか。ここで出会いました。

Rolling Stone Japan 編集部

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