日本のカバーポップス最大のヒロイン弘田三枝子、伊東ゆかりと振り返る当時の思い出



田家:弘田三枝子さんで1961年11月発売「悲しき片想い」。これもヘレン・シャピロ。ヘレン・シャピロも同い年だった。

伊東:そうなんですか。

田家:3人とも14歳だったんですね。弘田三枝子さんの6枚組プレミアムボックスが去年発売になりまして、その中で合田道人さんって方がお書きになってたんですが、弘田三枝子さんの三人娘の印象が紹介されておりまして、中尾ミエさんは何をやっても叶わない怖い人だったと。

伊東:うそ?! ミエさんが怖い人って言うのかな(笑)。本当? 本当ですか? はははは。

田家:はい。園まりさんは優しい人だった。プライベートのこともいろいろ相談に乗ってくれた人だった。

伊東:そうなんだ、そんなお付き合いがあったんですね、まりさんと。

田家:ゆかりさんの中ではどうですか?

伊東:私は、「人形の家」って曲が出たときにミコさんがすごく痩せて綺麗になって。ドレスの先生が同じだったんですミコさんと。仮縫いのところでもよくミコさんと会って、これからアメリカ行くとか、結婚するとか、どんどん綺麗になっていって。昔のダイナマイトのときのミコちゃんとは性格も変わっちゃったみたいな。ああ、恋をすればこんなに変わるんだなって。ドレスもよく似合ったしね。電車の中のミコちゃんとは全然印象が変わっちゃいましたね。

田家:そういうお2人が競作した曲をお聞きいただきます。1962年10月発売。弘田三枝子さんで「バケーション」。

バケーション / 弘田三枝子

田家:1962年10月発売、弘田三枝子さんで「バケーション」。同じ日に発売になったんですね。

伊東:そうですか。いやいやいや、全然歌い方が違いますね。ごーって言っちゃってますもんね。ふふふふ。負けた(笑)。

田家:直接こんなことをお聞きしていいのかどうかわかんないですけども、比較されるってやっぱり気持ちいいもんじゃないでしょう。

伊東:比較されたんですかね? よくわかんないです。「Vacation」もいろんな人が歌ってますから。ただ、私とミコさんの曲はことごとくダブリました。全部ダブりましたね、はっきり言って。何か意地悪されてんじゃないかってぐらいダブってますね。ただやっぱり、ミコさんのレコードなんか聞くと、私の歌い方はやっぱりさっぱりしすぎてるかなって感じがしますね。でもそれは私の歌い方だからいいのかなって気もするんだけど、当時はとにかくミコみたいな歌い方しろってよく言われましたから。何回かやったけど咳込んじゃって全然駄目でした、私には(笑)。

田家:やっぱりトライはされてるんですね。

伊東:レコーディングのときはしましたよ。私、言われるから。でも駄目でしたね。

田家:同じところでキャンプで歌ってた関係で、プロになって同じような歌を歌うのは何か特別なものはありました。

伊東:ふふふふ。何もありません。ただもう会ったときには、本当にミコちゃんと私ってあのときよく同じ歌を歌ったわよねって笑ったことはありましたけど。本人たちは別に競争意識はなかったんじゃないでしょうか?

田家:なるほど。これも競作でした。1963年12月発売、「私のベイビー」。

Rolling Stone Japan 編集部

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