日本のカバーポップス最大のヒロイン弘田三枝子、伊東ゆかりと振り返る当時の思い出



田家:1962年2月発売、2枚目のシングル「すてきな16才」。ミコちゃん。76にもなってミコちゃんはないだろうと思いながら話しておりますが、さっきお聞きいただいた「ヴァケイション」も1962年なんですね。『アメリカン・グラフィティ』という映画があったのをご記憶の方がたくさんいらっしゃると思うんですが、あれが公開されたときのキャッチフレーズは「1962年の夏、あなたはどこにいましたか」。1962年なんですよ。ベトナム戦争が泥沼化する前ですね。アメリカの青春が一番感傷的だったというんでしょうかね。ビートルズ上陸前ですよ。ビーチボーイズが活躍していて、アメリカンポップスが一番甘酸っぱかった。青春だった頃ですね。

カーペンターズの『ナウ・アンド・ゼン』というアルバムを覚えてらっしゃいますか? 「イエスタデイ・ワンス・モア」が入った名盤ですね。あのアルバムのジャケットが真っ赤なアメ車。今回確かめようと思ったんですけど、家にアナログ盤がなくてですね、あのジャケットの車のナンバープレートが僕1962だった記憶があるんですよ。ひょっとしたら間違ってるかもしれないんですが、1962年だったんですね。「イエスタデイ・ワンス・モア」の中に「Every sha-la-la-la Every wo-o-wo-o」って歌詞があるでしょ? あのシャララとかウォウウォウっていうのが、さっきの「すてきな16才」にも何度も出てきているアメリカンポップスの中のウォウウォなんですよ。私の懐かしい一番いい時代なんだ、あそこに帰ろうって言うのが「イエスタデイ・ワンス・モア」だったんですね。日本では、「いつでも夢を」という歌が大ヒットした年でした。やっぱりいい年だったなと思います。僕は中学生でした。1963年の曲をお聞きいただきます。「渚のデイト」。



田家:弘田三枝子さん1963年5月発売「渚のデイト」。これは伊東ゆかりさんもカバーしている曲ですね。「渚のデイト」の中でも弘田三枝子さんバージョンが一番エモーショナル。いろんな感情がこもってると言っていいかもしれませんね。表情豊かなボーカリストでした。訳詞が漣健児さんですね。シンコーミュージックの専務で、ミュージックライフの編集長。シンコーミュージックは洋楽の出版社でしたから、洋楽のいろんな情報がいち早く入ってくるんですね。その中で日本で流行りそうなものを見つけて日本語で歌わせた。弟さんの草野浩二さん、まだご健在ですが、彼が東芝のディレクターで、坂本九さんとか森山加代子さんとか弘田三枝子さんとか、そういう人たちに歌わせてたという。草野兄弟がこのブームを作ったわけですね。他にも訳詞する人がいたんです。音羽たかしさんって人がいたりして、伊東ゆかりさんは音羽たかしさんの訳詞の曲も歌ってますけども、キングレコード専属だったんで、やっぱり縛られてたんですね。漣さんはそういうところに縛られずに、いろんな歌手の、いろんなレコード会社の人の訳詞もしておりました。その中にはアメリカンポップスだけじゃない、こんな歌もあったんです。1964年のシングル。弘田三枝子さんで「砂に消えた涙」。

Rolling Stone Japan 編集部

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