日本のカバーポップス最大のヒロイン弘田三枝子、伊東ゆかりと振り返る当時の思い出



田家:伊東ゆかりさんが選ばれた弘田三枝子さんの1曲目、弘田三枝子さんのデビュー曲「子供ぢゃないの」。オリジナルはヘレン・シャピロでした。後半もよろしくお願いします。

伊東:とにかく、この頃の「Vacation」から始まってことごとくミコさんとは曲がダブりました(笑)。でも売れたのは全部ミコさんです。

田家:ははは。

伊東:ミコさんみたいな歌い方、唸るみたいなのができなかった。咳込んじゃって(笑)。だから「子供ぢゃないの」も途中でありましたよね。あれが本当にできなかったですね。

田家:弘田三枝子さんは元々童謡教室に通っていて、そこからティーブ・釜萢さんのジャズスクールに行って。それで米軍キャンプで歌うようになったんですね。米軍キャンプの歌う場所がどのくらいあるか調べたら東京と横浜だけで80何カ所以上ですよ。

伊東:多分全部回ってると思います。

田家:それはでも1組2組じゃないわけですもんね。

伊東:そうですね。同じ日にあちこちのクラブに行きますから。多分すごい人数だったんだと思いますよ、東京駅とか新宿とか。何の団体だろうと思われていたかもしれませんね。事務所があったのか私はわからないんないですけど、「今日は3時に新宿だからな」って。それまで学校から帰って来いとか言われて。

田家:そういう小学生、何人ぐらいいたんでしょう?

伊東:たくさんいましたよ、あの頃。ミコさんもそうでしょ。やっぱ時代ですからね。みんな本国に家族残してきてる。結構いましたよ。私ぐらいのちっちゃな子がやるパフォーマンスの人って。でもみんな、お役所には内緒だったですよね。夜働いちゃいけないから(笑)。未成年者は。

田家:何を歌うかはご自分で?

伊東:いやいや。私は自分じゃなくて父が曲の譜面を持っていって、そのクラブの専属のバンドの人に譜面を渡してリハーサルをしました。

田家:お父さんも一緒に。

伊東:はい。一時は一緒にずっとついて回ってました。

田家:そこから本当に日本の戦後の音楽が始まったんですもんね、ポップスは。

伊東:そうでしょうね。そう思いますけど(笑)。

田家:釜萢さんはよくそういう話をされていて、トラックで行ったこともあるって言われてましたね。

伊東:あります、私も。新宿からトラックに乗せられましたね。ただ私は子供だから助手席に乗せてもらいました。どこだったかな、あの頃は青梅街道も狭かったから途中でトラックが事故っちゃってね。私が前歯を折っちゃったことがありますね。

田家:その日歌えたんですか?

伊東:ついてからすぐ病院に連れていかれましたよ。アルコールみたいなので消毒されて。歌ったでしょうね。仕事で行っていたんですから。

田家:1週目で、子供のとき歌が嫌でしょうがなかったっていうのはそういう環境も影響していたんですか。米軍基地の中に大人と一緒に混じって。

伊東:いや、そんなことはなくて、ただ歌うのが嫌だったっていうだけの話ですよね。お客様の前で。アメリカの兵隊さんだからとかそういうんじゃなくって、何で歌わなくちゃいけないのみたいな。そのうちになんとなく子供心に、私が歌えば家計が助かってるんだってわかってきて。あとは兵隊さんたちがいろんな美味しいものを持ってきてくれますから、今日は歌えば何をもらえるのかなっていうのが楽しみになりました。

田家:そういう中で、ミスダイナマイトと呼ばれた弘田三枝子さんと、ノースマイルと呼ばれた伊東ゆかりさんです。弘田三枝子さんの曲をもう1曲。「悲しき片想い」。

Rolling Stone Japan 編集部

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